続クトゥーゾフの窓から

米国の花形外交官に思う 四半世紀にわたる対露関係の変遷

大前仁・外信部副部長
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首脳会談で握手を交わすバイデン米大統領(右)とプーチン露大統領=ジュネーブで2021年6月16日、AP
首脳会談で握手を交わすバイデン米大統領(右)とプーチン露大統領=ジュネーブで2021年6月16日、AP

 米国の花形外交官が最前線に戻ってくる。駐中国大使に指名されたニコラス・バーンズ氏である。私は四半世紀前、米国務省の報道官を務めていたバーンズ氏の記者会見に通っていたから、懐かしさを覚えた。同時にバーンズ氏が私の前で見せたある言動を思い出した。それは当時の米国がロシアとの関係を重視する姿勢の表れでもあった。記憶をたどりながら、今の米露関係も考えたい。

 現在、米国のハーバード大行政大学院で教えているバーンズ氏は、キャリア・ディプロマットと呼ばれる外交官出身の大使経験者だ。1990年代後半から駐ギリシャ大使や北大西洋条約機構(NATO)担当大使を務め、2000年代半ばには国務次官に就いていた。

 バーンズ氏が国務省報道官を務めていたのは、1995年から97年まで。当時のクリントン政権は冷戦後の世界にどう関与するのかに戸惑いながらも、中国の台頭を許していなかったし、ソ連崩壊後の混乱に苦しむロシアもライバルとなり得なかった。まさに「一極の頂点」に身を置いていた。

 インターネット時代を迎えようとしていたが、私が取材を始めた当時の米国務省の記者会見ではテレビ中継すら許されていなかった。バーンズ氏が重要な発言をすると、通信社の記者が駆け足で出て行き、速報を流そうとしていた時代だ。そのため米国の記者だけではなく、外国のワシントン特派員も頻繁に記者会見に通い、バーンズ氏の発言に耳を傾けていた。

 一方の私は96年に米国の大学院を出て、ある日本の新聞社のワシントン支局で働き始めたばかり。何を取材したらいいのかもわからず、毎日のように国務省に足を運び、バーンズ氏の発言に耳を傾けていた。救いの一つはバーンズ氏が大リーグの名門ボストン・レッドソックスの熱狂的なファンであり、よく話題にしていたことだ。ちょうど野茂英雄さんが大リーグで活躍し始めた頃だったから、私も野球の話題を取り上げて、バーンズ氏との会話を弾ませようと試みる日々を過ごしていた。

エリツィン再選を望んだ米国

 96年のクリントン政権にとって、対露関係の最優先課題は当時のエリツィン大統領の再選を導き、安定した2国間関係を築くことだった。91年にはソ連崩壊とロシア独立を主導したエリツィン氏だが、その後は社会と経済の混乱を収められず、国内で支持を失っていた。そのため、7月の大統領選の決選投票では、共産党のジュガーノフ候補が勝ち、共産党政権が復活する可能性もまことしやかに取り上げられていた。

 当然ながら米国はこのようなシナリオを嫌っていた。40年に及ぶ冷戦を終え、ようやく共産主義に勝利したのに、再びロシアで共産党政権が誕生するような事態は受け入れられない。そのため米国のPR会社を送り込むなどして、クリントン政権はエリツィン再選を後押ししようとした。

 96年7月3日、ロシア大統領選の決選投票が行われ、エリツィン氏は5割強の票を得て再選にこぎ着けた。実は決選投票に先立ち、第1回投票で3位につけた退役軍人のレベジ氏がエリツィン支持に回った時点で、エリツィン氏の勝利は半ば決まっていたのだ。

 それでも翌4日にエリツィン再選のニュースが流れると、バーンズ氏は喜びを隠そうとしなかった。…

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大前仁

外信部副部長

1969年生まれ。2008~13年、18~20年にモスクワ支局勤務。現在は旧ソ連諸国や米国の情勢、日露関係を担当。