
今年の夏は、緊急事態宣言下という異常な状況下、東京オリンピック・パラリンピックが開催された。新型コロナウイルスで医療体制も逼迫(ひっぱく)し、多くの人が不自由を迫られている中、なぜ五輪だけ開催を強行するのか、という批判が広がり、菅内閣は追い詰められた。
立ち止まって反省を
しかし、オリパラ閉幕を待たずに政権与党は総裁選に向けたパワーゲームに突入してしまい、オリンピック・パラリンピックは早くも忘れ去られようとしているかに見える。それでいいのか? 「敗北を抱きしめる」ことも含め、立ち止まって反省・思考することがない社会には成長の余地がない。
オリンピック憲章は人権、平等、多様性などの理念を掲げる。開催国の人権、多様性に関するありようは、世界の注目にさらされ、その取り組みが問われることになる。そこで日本でも、にわか仕立てで、「Be better, together/より良い未来へ、ともに進もう」などというスローガンのもと、ジェンダー、多様性、持続可能性などということが取り上げられるようになった。しかし、五輪が体現しようとした多様性や人権というテーマは果たして日本に根付いたのだろうか?
今年2月、東京オリンピック・パラリンピック組織委員会の森喜朗会長(当時)は「女性がたくさん入っている理事会の会議は時間がかかります」、組織委員会の女性理事は「わきまえておられて」という女性蔑視発言をし、それを聞いた日本オリンピック委員会(JOC)関係者は問題にすることもなく笑っていたという。
カジュアルな女性差別がまん延し、何が問題かすら気付かない状態だったのだろう。森氏は批判を受けても発言を撤回して地位にとどまろうとし、女性たちのオンライン署名や海外メディアからの批判でようやく辞任した。
相次いだ差別発言
組織委員会は理事の女性登用を増やしたが、旧態依然とした体質は変わらず、演出に関わったクリエーターの差別発言が相次いで発覚した。
演出担当者が、女性タレントを動物に例えて侮蔑するパフォーマンス案を提案したことが発覚して辞任。開幕直前には、作曲家が障がい者いじめとそれを自慢する発言を問題視されて辞任した。さらに開会式の演出の担当者が、以前にユダヤ人虐殺をコントの対象としていたことが発覚して解任された。直前のドタバタは世界をあきれさせた。
多様性、平等、人権などの理念をお題目としか考えず、人権問題を「ささいなこと」として軽視し、実態としてはカジュアルに女性やマイノリティーを差別するカルチャーのまま。そんな日本の人権意識が大会を通じて世界に露呈してしまったように思う。良心ある多くの人たちが声を上げにくい状況を作って、内部からの真摯(しんし)な自浄作用を潰してきたのではないか。
多様性は進んだのか
大会運営から一歩外に出て日本全体を見渡すと、人権の尊重、多様性は2020大会を機に進んだのだろうか? …
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