
自民党の総裁選挙がたけなわの中で、石橋湛山元首相のことがしきりに思い浮かぶ。
石橋湛山は自民党第2代の総裁で、昭和31(1956)年12月に首相に就任したが、突然病に倒れ、わずか2カ月で退陣のやむなきに至った。
私学出(早稲田)として初めて、言論人としても初めての首相。当時の三木武夫幹事長が「神武以来の人気」と言うほど国民的な歓迎を受けて登場した。
彼は55年体制と言われる保守・革新の全面対決の時代に、革新陣営からも温かく迎えられたのである。
言論人としての著作はもちろん歴代首相で随一。湛山の思想・業績に関する評伝も他の政治家を圧倒し、今年も保阪正康氏の「石橋湛山の65日」が出版されている。加えて、このところ「学界」ができるほど湛山研究者が増えてきている。
私に対して直接、「湛山先生を最も尊敬している」と明言した著名な政治家が少なくとも4人いる。
石橋内閣の石田博英官房長官、宮沢喜一元首相、三木内閣の井出一太郎官房長官、そして熱烈な石橋ファンであった宇都宮徳馬元衆院議員。いずれも戦前からの揺るぎない自由主義者であった。
訪中に際し、わざわざ病床の湛山にあいさつに出向いた田中角栄元首相も湛山崇敬者の一人。李香蘭こと山口淑子元参院議員も私に「湛山先生のような方がまた日本の政界に出てきてほしい」と語ったことがある。

さて、政治家としての湛山の格の違いは、その言動が一貫した国家観と歴史観に裏付けられていたところにある。その思想は付け焼き刃ではなく、体を張って戦前の政治や軍部と闘う中で鍛えられたものだ。
湛山思想の核心は、自由権の尊重だろう。
湛山は、学問、表現、言論の自由を確保することは何よりも将来のために必要だと説く。自由な精神世界を保障すれば、そこからいまだ発見できていない豊かな将来構想が生まれてくると言うのである。
学術会議会員の任命拒否などは、逆に将来への構想力を大きく制約する恐れがある。湛山今もしありせば、決して了承しないだろう。
湛山は、“大日本主義”を掲げた戦前の日本の国策の誤りを鋭く指摘してきた。
だから、昭和20(1945)年の8月15日に“大日本”が敗戦を迎えたとき、おそらく日本で唯一、戦後日本の国家経営の構想を体系的に示すことができた。
湛山は終戦の日の夜、疎開先の秋田県・横手で「更生日本の門出――前途は実に洋々たり」を書き上げ、8月25日号の東洋経済誌に発表。さらに、戦中に蓄積してきた戦後日本の政治・経済構想8本を書き上げて8月24日に上京。それらを矢継ぎ早に発表して戦後日本の進路設定に強い影響を与えた。
終戦の日の夜、書斎に入る湛山の背中には「声をかけるのもはばかられるほど、強い覇気と勢いを感じた」と長男の湛一氏が生前、私に語った。
湛山は戦中に「四つの島になったら、四つの島で食っていくように工夫すべきであるし、やり方によってそれはできる」と中山伊知郎氏(経済学者、元一橋大学長)らに言っていたという。最高の学識を誇る中山氏とてこんな湛山に同調できなかったが、晩年には「石橋さんには議論ですでに負けたし、その後の事実の進行では、いっそうはっきり負けた」と述懐した。
ある意味では、当時よりはるかに難解な未来を前にして、今回の総裁候補は、明確な構想と覚悟を持っているのだろうか。
湛山は昭和42(1967)年、病床から「政治家にのぞむ」というメッセージを発している。これはいわば当時の政治を評しての湛山の嘆息である。
「私が、いまの政治家をみていちばん痛感するのは『自分』が欠けているという点である。『自分』とはみずからの信念だ。(中略)政治の堕落と言われるものの大部分は、ここに起因すると思う」
50年以上前のメッセージだが、その後の政治が劣化の一途をたどっているとしたら当時よりさらに救い難い局面に至っていると言ってもよい。果たして、総裁候補に「自分」があるか、信念があるか。時代環境は自分が無い、信念が無い人には断じて委ねられないほど切迫している。
われわれは石橋湛山のような厳しい眼で総裁選の経過と結果を注視すべきである。

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