オアシスのとんぼ

慰安婦合意を想起させるドイツとナミビアの関係とは<記憶の戦争 3>

澤田克己・論説委員
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「最終的かつ不可逆的な解決」をうたった慰安婦合意について発表する岸田文雄外相(左)と韓国の尹炳世外相=ソウル市の韓国外務省庁舎で2015年12月28日、大貫智子撮影
「最終的かつ不可逆的な解決」をうたった慰安婦合意について発表する岸田文雄外相(左)と韓国の尹炳世外相=ソウル市の韓国外務省庁舎で2015年12月28日、大貫智子撮影

 ドイツは2021年5月、第一次世界大戦前に植民地支配していた南西アフリカ(現ナミビア)での虐殺を謝罪し、ナミビアに11億ユーロ(約1470億円)を支払うと発表した。両国政府の合意に基づく措置だが、支払いは「法的な賠償」ではなく道義的責任に基づく支援金だとされた。

 日本とドイツの対応には違いもあるが、日韓の慰安婦合意(15年)を思い起こさせる点が少なくない。専門家は、ナミビア問題もこれで終結と簡単には断言できないとも話す。ドイツも、冷戦終結の流れの中で浮上した「記憶の戦争」に悩まされているようだ。

賠償を認めないドイツと日本

 ドイツは、1884~1915年に南西アフリカを植民地支配した。ここに住んでいたヘレロ、ナマの両民族が04年に蜂起し、独軍は徹底的に弾圧した。独軍の作戦は「民族の絶滅」を意図したもので、約8万人いたヘレロの8割、約2万人だったナマの半数が殺害されたとされる。

 マース独外相は合意発表にあたっての声明で「正式にジェノサイド(大量虐殺)と呼ぶ」と表明し、「歴史的、道義的責任に鑑み、ナミビアと犠牲者の子孫に許しを請う」と謝罪した。一方で、11億ユーロの供与は「犠牲者の苦しみを認識する意思表示」だという立場を示し、ナミビア側が求めた「賠償」には応じなかった。

 賠償に応じなかった背景には、英仏両国への影響も指摘される。補償や賠償を認めると植民地帝国だった英仏に飛び火して、「収拾がつかなくなるかもしれない」という懸念があるからだ。

 慰安婦問題では、法的な「賠償」を求める韓国側と、道義的な責任は認めるという日本側の対立が続いてきた。慰安婦合意では日本が改めて謝罪を表明し、政府予算から10億円を拠出したが、資金の性格は明確にされなかった。日韓間でどうしても調整できなかったからだ。

 日本の場合、北朝鮮との国交正常化交渉が残っているという事情が大きい。原則から外れた対応を韓国にすると、北朝鮮との交渉が難しくなるからだ。さらに、既に終わった東南アジア諸国との戦後処理に影響しかねないという懸念も指摘される。日韓関係の基礎である請求権協定はサンフランシスコ講和条約体制の一部であり、そこが揺らぐと他国との関係も見直しを迫られかねないからだ。

 なお韓国は慰安婦合意で、ソウルの日本大使館前に設置された慰安婦問題を象徴する少女像について「適切に解決されるよう努力する」と表明した。韓国政府が適切な努力をしていないという批判は妥当だろうが、撤去の約束ではなかったことには注意が必要だ。

 韓国の文在寅(ムン・ジェイン)大統領は2021年の新年記者会見で、慰安婦合意が政府間の正式な合意であったことを認めた。岸田文雄首相も、合意は依然として有効だという立場を表明している。

冷戦終結がナミビアを独立させ、「記憶」が表面化

 世界各地で起きている「記憶の戦争」とでも呼ぶべき歴史認識紛争の多くは、1989年の冷戦終結を契機に始まっている。慰安婦問題や徴用工問題もそうだし、ドイツとナミビアの問題も例外ではない。

 ナミビアは、第一次大戦後も隣国である南アフリカから植民地支配を受け、「アフリカ最後の植民地」と言われた。独立を果たしたのは、90年になってからだ。

 永原陽子・京都大名誉教授(アフリカ現代史)によると、冷戦下の南アフリカは南部アフリカにおける「反共の防壁」だった。反共のためであれば、国内的な矛盾とは関係なく欧米先進国から支援を得られたのが冷戦時代だ。白人支配体制を維持するためのアパルトヘイト(人種隔離)も温存された。

 ところが冷戦終結によって「反共の防壁」は存在価値を失った。その流れの中で南アフリカへの風当たりは強まり、長年の懸案だったナミビア独立が実現し、アパルトヘイト関連法も91年に廃止された。

 そして独立後のナミビアで、独植民地時代の虐殺という「記憶」が呼び戻された。ヘレロ民族の代表者がドイツに補償を求める運動を始め、21世紀最初の年である01年、米ワシントンでドイツ政府と企業に損害賠償を求める訴訟を起こした。

 永原教授は「独立が実現するまでは、他の問題に手を付ける余裕などない。水面下に押し込められていた問題が冷戦終結後に出てくるのは、他の旧植民地も同じだ。民主化と多党化の進展によって、いろいろな声が出せるようになったことも大きい」と指摘する。

 こうした構図もまた、韓国と重なる。

 冷戦時代の日米は、北朝鮮とにらみあう「反共のとりで」として韓国を支えた。韓国の側から見ると、日米との関係は命綱だった。日米は韓国政府の人権弾圧に甘い姿勢を取り、一方で韓国の権威主義的政権は人々の不満を押しつぶした。韓国の反政府勢力も、最大の課題である民主化以外に力を割く余裕などなかった。

 そうした状況が80年代後半の冷戦終結と民主化によって一変し、慰安婦や徴用工の「記憶」が前面に出たのである。

政府間交渉からの排除に不満募らせる「当事者」

 ヘレロ民族の代表が米国で起こした訴訟は2007年までにすべて却下された。だが、この訴訟によって国際的な注目を集めることには成功したという。

 永原教授の著書によると、ナミビアが独立した時、ドイツは自らが「特別の歴史的責任」を負っているという声明を出した。ただその後も、当時は該当する国際規範がなかったので虐殺に対する法的責任はないと主張し、「歴史的責任」を果たすために多額の開発援助を供与するという立場を取った。

 蜂起100周年の04年、現地での記念式典に派遣された社民党所属の経済協力相は、一歩踏み込んだ。ドイツによる残虐行為を詳細に列挙し、「当時行われた大量虐殺は、今日であればジェノサイドと呼ばれる」と述べた。従来の政府見解を大きく超える発言は、大きな波紋を呼んだ。

 ただ独政府が翌年に提案した「和解イニシアティブ」は、法的責任を認めないまま「和解金」として2000万ユーロをナミビアに支払うというものだった。ナミビア側との調整を経ない一方的な提案だったこともあり、合意にはいたらなかった。

 ドイツとナミビアはその後、共同で当事者の要望を聴取して交渉を進めた。そして07年、被害を受けた民族の居住地域での事業にドイツが2000万ユーロを支援することで合意した。この時も「特別の歴史的道義的責任」だったが、被害民族を特定したことで一定の「補償」の意味が込められたという。

 だが、ヘレロには強い不満が残った。虐殺には関係のない最大民族オバンボ主導のナミビア政府による交渉で、当事者が排除されていたというのだ。オバンボとヘレロは植民地時代、南アの分断統治策によって対立するよう仕向けられた。独立から20年弱の時点では、その影響が依然として色濃く残っていた。

和解合意から8年後に再燃した「記憶の戦争」

 事態を再び動かしたのは、アルメニア人虐殺を巡る「記憶」だった。…

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澤田克己

論説委員

1967年生まれ。埼玉県狭山市出身。91年入社。ソウル支局やジュネーブ支局で勤務した後、論説委員を経て2018年から外信部長。2020年4月から再び論説委員。著書に『「脱日」する韓国』、『韓国「反日」の真相』、『反日韓国という幻想』、『新版 北朝鮮入門』(共著)など。