「鎖国」メンタリティーが強い日本 異質さを受け入れられるか

岩間陽子・政策研究大学院大学教授
閑散とする国際線の到着ロビー=千葉県成田市の成田空港で2021年11月30日、小川昌宏撮影
閑散とする国際線の到着ロビー=千葉県成田市の成田空港で2021年11月30日、小川昌宏撮影

 ほぼ2年ぶりに海外に出た。たった5日間のヨーロッパであったが、楽しかった。

 かつて皇后さま(当時は皇太子妃)が、愛子さま出産後初の外遊となったニュージーランド・オーストラリア訪問を控えた記者会見(2002年12月)で、「6年間の間、外国訪問をすることがなかなか難しいという状況は、正直申しまして私自身その状況に適応することになかなか大きな努力が要ったということがございます」とおっしゃられたことがある。そのお言葉を思い起こすような気分であった。

 国際政治学をやっている人間は、もともと落ち着きのないのが多い。周囲を見回しても、四六時中飛行機に乗っていて、一体君の身体はどこの時差に合っているの?というようなのがいっぱいいる。その中では、私は海外出張が少ない方であった。子どもが本当に小さい頃は、年1回程度で我慢していたし、最近でも年数回に収めていた。学齢期の子どもの母親がそんなにしょっちゅういないことを、日本の社会はまだまだ許容してくれない。

異質なものと触れてこそ

 しかし、外の空気を吸うのは栄養である。人間は、自分と異質なものと触れてこそ、自分というものを考えるようになる。自分を意識することは、すべての「考える」の原点であると私は思っている。だから、感受性の鋭敏なうちに、どんどん海外に出るべきだ。自分の子どもも、努めて異質な環境に放り出すように心がけてきた。

 子どもが不登校になって、自分の研究生活を1年くらい棒に振ったこともあった。けれど、十分その価値はあったと思っている。子どもはそこを乗り越えたことで、強くたくましくなった。やさしくもなったと思う。自分も成長した。知らなかったことに、たくさん出合った。子どもの困難に一緒に取り組んでくださった、学校の先生、お医者さん、カウンセラーさん、教育センターの方々、友達、同級生のお父さんお母さんたち。多くの人と深く関わり合い、子どもが成長していく喜びを分かち合えたことは、私の人生の宝となっている。

鎖国メンタリティー

 それなのに、どうして日本はこんなに鎖国メンタリティーが強いのだろうか。「入り鉄砲に出女」(江戸幕府の関所での取り締まりを表現した言葉)と、その昔言ったそうだ。

 今は「入りウイルス」である。入れないために貝のように口を閉ざしてしまって、みんな安心しているのだろうか。オミクロン株が出始めて、いきなり日本が国境を閉ざした時、それを歓迎したり、当たり前だと思う声が結構あったりしたことにあぜんとした。そんなに鎖国が好きなのかと思った。

 山崎正和先生の学問の価値が分かるほどの頭脳は、私にはない。ご著書を拝読しても、ちんぷんかんぷんなことが、ほとんどである。でも、一つだけ強烈に印象に残っていることがある。山崎先生は、徳川家康が大嫌いだった。信長が天下を取っていたら、日本はもっと早くに自由市場経済、自由貿易の国になって、もっと早くに発展して、面白い国になっただろうにとおっしゃっておられて、目からうろこが落ちる思いがした。

閉鎖的だった江戸時代

 私が育ってきたのは、戦争の記憶も薄れ、高度経済成長期を経て、日本が最も自信を抱いていた時代だった。なので、自国の過去を肯定的にとらえなおすことが大流行だった。「江戸ブーム」もその一つだった。確かに江戸時代、つぼの中に閉じこもるような生活を過ごしたことで、酒が発酵するように文化がらん熟した面はあった。その割には、商業も物流も発達し、教育水準が高く、市民の意識も高かっただろう。

 けれどそれは、江戸の息詰まるような閉鎖的な面と背中合わせであった。…

この記事は有料記事です。

残り2540文字(全文4019文字)

政策研究大学院大学教授

 京都大学法学部卒、同大学院博士後期課程修了。京都大学博士。在ドイツ日本国大使館専門調査員などを経て、2000年政策研究大学院大学助教授。09年同教授。専門は国際政治学、欧州外交史、安全保障。著書に、「核の一九六八年体制と西ドイツ」(有斐閣、21年、日本防衛学会猪木正道賞正賞)、「ドイツ再軍備」(中央公論社、1993年)など。