
ロシアとウクライナの関係が緊張している。ウクライナのゼレンスキー政権はポピュリズムを基調とする。現在、ウクライナ東部のルハンスク州(ロシア語ではルガンスク州)の約半分、ドネツク州の約3分の1は親露派武装勢力の実効支配下にある。
ゼレンスキー大統領は、これら2州の実効支配を回復しようとしている。自国の領域の実効支配を回復することは当然のように思えるが、ウクライナ東部に関して、事態はそう単純ではない。
「帝国臣民」だったウクライナ東部の人々
ウクライナ東部に住んでいる人々は、歴史的にロシア語を話し、ロシア正教を信じるロシア帝国臣民(近代的な国民ではなく、皇帝に忠誠を誓う人々)と考えられていた。
1917年11月にロシアで社会主義革命が起きると、同時にウクライナ人民共和国の成立が宣言された。当時は第1次世界大戦中で、ウクライナ人民共和国はドイツと連携し、ソビエト・ロシアと戦った。18年3月にブレスト・リトフスク条約が成立し、ドイツ、ウクライナなどとロシア(ソビエト政権)の間に和平が成立し、ロシアは戦争から離脱した。このときのウクライナとロシアの国境線が基本的に現在の両国を隔てることになった。しかし、18年末にはソビエト政権が西部を除くウクライナのほぼ全域を実効支配する。そして22年にソ連邦が結成されたとき、ウクライナもソ連に加盟したが、国境線に変更はなかった。
ソ連のプロパガンダ
ソ連時代には、「形式的には民族的、内容的には社会主義的」というスローガンでソビエト国民を形成する運動が本格的に展開された。第2次世界大戦中、ナチス・ドイツはウクライナ・ナショナリズムを利用するとともにそれがドイツに都合がよくなくなると弾圧するという首尾一貫しない政策をとった。
対して、スターリンは第2次世界大戦を大祖国戦争と名付け、ロシア人、ウクライナ人など民族の差異にかかわらず祖国を防衛する戦争だというプロパガンダ(宣伝)を展開し、それが奏効した。ソ連赤軍は旧来、ロシア帝国やソ連の版図になかったウクライナ西部のガリツィア地方を編入した。さらに戦前はチェコスロバキア領であったザカルパチア地方を共産化する前のチェコスロバキア政府に割譲させた(その結果、ソ連はハンガリーと国境を接するようになった。56年のハンガリー動乱ではこの国境線を越えてソ連軍がハンガリーに侵攻した)
「ソビエト人」の誕生
ソ連のウクライナ政策は文化的自治を強化する方向とロシア化する方向で若干のジグザグがあったが、政治的にウクライナ人はソ連制度に組み込まれていった。政治、経済エリートの階梯(かいてい)を上る際にロシア人かウクライナ人かベラルーシ人かという差異は考慮されなかった。これら民族出身のエリートは自らをソビエト人と考えるようになった。
一方、ガリツィア地方では反ソ武装闘争が50年代半ばまで続いた。また、ソ連支配を望まないガリツィア地方のウクライナ人たちは亡命し、その多くがカナダ…
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