
此度(このたび)、筆者が各位に呼び掛ける議論は、大貫智子記者による遠藤乾教授へのインタビュー記事<日本が対中制裁に加わる日は来るか 人権外交の難しさとは>を踏まえて、日本の対外政策対応における人権の位置付けへの評価を問うものである。
「仏作って魂入れず」にならないか
既に知られている通り、ジョセフ・R・バイデン大統領麾下(きか)の米国政府は、中国やロシアを念頭に置き、「人権」を前面に出して対外政策を展開しようとしている。岸田文雄首相麾下の日本政府もまた、中谷元衆院議員の国際人権担当首相補佐官起用や外務省内における人権担当官ポストの新設といった対応を通じて、そうした動きに呼応しようとしている。ただし、懸念されるべきは、日本政府の対応が「仏作って魂入れず」の類いにならないかということである。

根付かなかった人権という価値
遠藤教授が指摘するように、「戦後の日本において、平和主義は根付いたけれども、人権という価値は平和ほど根付かなかった」というのは、紛れもない事実であろう。
それがなぜかを問うことは、大事である。筆者が観(み)る限り、それは、戦後日本が第二次世界大戦の歳月にどのような記憶を抱いたかということに結び付いている。
脇に追いやられた人権侵害の記憶
そもそも、欧州世界にあっては、第二次世界大戦の記憶とは、「戦争それ自体の惨禍の記憶」と「ナチス・ドイツのホロコーストに象徴される人権侵害の記憶」の二つが重なったものである。
かたや、日本にあっては、それは、何よりも「戦争それ自体の惨禍の記憶」であり、それに付随する戦時中の生活困難の記憶である。戦後日本の多くの人々を衝(つ)き動かしたのは、経済発展を通じて、この生活困難から脱出するというモチベーションであった。
このようにして、戦後日本の時代精神を彩ったのは、「花より団子」の言葉における「団子」に喩(たと)えられる実利優先の価値意識であった。そこでは、人権を含めて「花」に喩えられる抽象的な価値への意識は、脇に追いやられた。
「花より団子」でやってきた
折しも、昨年12月24日、岸田首相は、来る2月に開催される「北京二〇二二」(北京冬季オリンピック・パラリンピック)に政府関係者を派遣しない旨、表明した。

日本政府は、米国から英豪加各国に拡(ひろ)がった「外交ボイコット」の動きに実質上、轡(くつわ)を揃(そろ)える対応に踏み切ったのである。こうした動きを前にして、櫻田謙悟経済同友会代表幹事は、12月14日の時点で、「旗幟(きし)を鮮明にすることが国益にかなうとは必ずしも思わない」と語り、「外交ボイコット」呼応への動きに異を唱えていた。
櫻田代表幹事の発言は、遠藤教授が指摘するように、「人権問題より経済発展を重視してきた。経済界には、ビジネスにマイナスになることを押し付けられたくないという考え方も強かった」従来の認識を継いだものであるといえる。これもまた、「花より団子」の論理が優越した戦後日本の様相を表す。
文明の衝突の幕開け
現今は、多分に米国を含む「西方世界」諸国と中国との永き「文明の衝突」が幕を開けた時節なのかもしれない。「北京二〇二二」への対応も、その一つのエピソードに過ぎないのであろう。

12月23日、バイデン大統領は、人権侵害を事由として中国新疆ウイグル自治区からの産品輸入を全面的に禁止する「ウイグル強制労働防止法案」に署名し、法案は成立した。「人権」と「経済」がリンクする趨勢(すうせい)は今後、加速することになろう。
日本は人権を後回しにできるか
こうした趨勢の中では、「花より団子」という戦後日本の主流姿勢は、果たして持続できるものなのか。今や、実利だけではなく人権にも眼(め)を向けることが要請されるという趣旨で、「花も団子も」という姿勢へ転換が迫られているのではないか。
更にいえば、現下に浮上しつつあるのは、人権を顧慮しなければ実利も失うという趣旨で、「花あってこその団子」と評すべき風景ではないのか。
このように考えれば、人権への姿勢が問い掛けるものは、「花より団子」の言葉に反映される自らの信条の有り様(よう)である。この件、読者各位は、どのようにお考えであろうか。真剣な所見が寄せられることを期待する。
櫻田淳
東洋学園大教授
1965年生まれ。専門は国際政治学、安全保障。衆院議員政策担当秘書の経験もある。著書に「国家の役割とは何か」「『常識』としての保守主義」など。フェイスブックでも時事問題についての寸評を発信。
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