沖縄県民が望んだ「復帰」はまだ実現していない 沖縄返還50年

赤嶺政賢・衆院議員
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赤嶺政賢氏=須藤孝撮影
赤嶺政賢氏=須藤孝撮影

 沖縄は今年(2022年)、1972年に本土に復帰してから50年を迎える。

 私は学生時代(1966年に沖縄から国費留学生として東京教育大学<当時>に入学)に沖縄返還運動に関わった。私たちの当時の主張はサンフランシスコ講和条約第3条(※)の撤廃だった。

 第3条には米国が沖縄などに対して「領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有する」という規定がある。米国が信託統治制度の下におくことを国連に提案するまでという書き方になっているが、信託統治など国連が認めるわけがないから、事実上、米国が沖縄を永久に支配する規定だ。

 戦後の沖縄は、単独講和(西側とのみの講和)であったサンフランシスコ講和条約によって生まれた日本の戦後のゆがみと、しっかり結びついている。

人権が保障されない沖縄

 米軍の直接統治下の沖縄は人権がまったくない状態だった。沖縄戦で悲惨な目にあい、米軍の統治下で散々な目にあった。

 私が中学生の時に、米軍が学校のグラウンドを整備してくれるのだが、その際に校長先生が生徒を集めて米軍に感謝状を渡す。すると米軍の隊長は「みなさんの尊い犠牲があるから極東の平和と安全は守られている」と演説する。心中、穏やかではいられなかった。とても悔しかった。

 私が小学校6年生だった1959年6月に宮森小学校(石川市=現うるま市)と周辺住宅地に米軍戦闘機が墜落し、児童を含む18人が犠牲になった。グラウンドに集まって宮森小学校の方向に向かって黙とうをした。

 私が中学校3年生だった1963年2月に、那覇市で信号無視の米軍トラックが中学校1年の国場秀夫君をはねて即死させた「国場君事件」が起きた。米兵は軍法会議で無罪になった。

 そうした日々が当たり前だった。沖縄に教員らによる「子どもを守る会」というものがあったが、これは米軍の犯罪から子どもを守る会だ。東京に留学して「緑が多い」と言って同級生に笑われた。沖縄は沖縄戦で焼け野原になってしまい、緑化運動をしていた。緑が多い、と感動する自分が間違っていると気がついた時に、沖縄ではいかに人権が踏みにじられているかをあらためて実感した。

不当な沖縄の地位を突破したい

 東京では大学の担当職員が一種の親心で「沖縄の学生が復帰運動に参加するとパスポートを取り上げられて帰れなくなるのではないか」と心配していた。学生自身の中にも口には出さなくてもそうした不安はあった。

 しかし、そこを突き破るような感情があった。沖縄の学生は自分が日本人なのか、なんなのかというアイデンティティーを問われる毎日だった。…

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赤嶺政賢

衆院議員

1947年生まれ。那覇市議を経て、2000年衆院初当選。共産党沖縄県委員長、党幹部会委員。衆院沖縄1区、当選8回。