特別な年としての2022年

白井聡・京都精華大学国際文化学部准教授
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白井聡氏=山田尚弘撮影
白井聡氏=山田尚弘撮影

日本近現代史の終着駅

 本年、2022年は近現代日本にとってきわめて特別な年、節目の年であると筆者は見なしている。今年は、戦後×〇周年というわけではないし、明治維新から数えてキリのよい数字が浮かび上がるわけでもない。だが、考えてもみよう。戦後×〇年といったキリのよい数字は、歴史を思い起こすよすがとはなっても、その数字そのものに意味があるわけではない。2022年には、もっと内在的な意味がある。

 このことは、2018年に上梓(じょうし)した「国体論――菊と星条旗」(集英社新書)において展開した議論なのだが、本年の重要性はあたかも2022年という数字が日本の近現代史の終着駅であるかのように立ち現れてくる、という点にある。それはなぜか。

「戦前」と「戦後」

 私たちは、日本の近現代史の全体像をイメージする際に、ほとんど習慣のように「戦前」と「戦後」という区分を持ち込み、1945年の敗戦という出来事を近現代の決定的なターニングポイントと見なす歴史意識を自明のものとしている。この歴史意識において、日本の近代が1868年の明治維新に始まるとすれば、「近代前半」は1945年に終わり、1945年から「近代後半」が始まる。1868年から1945年までが77年間、そして1945年から2022年までが同じく77年間。つまり今年は、「戦前」と「戦後」の長さが全く等しくなる、そのような年なのである。

 「戦後」も長くなったものだ――そんな感慨が湧きあがる。だが、その長さに比して、私たちの持っている「戦後」のイメージは、あまりに平板ではないか。

イメージできる「戦前」

 すなわち、「戦前」の時代については、私たちはその起伏に富んだ流れをはっきりとイメージできる。まずは「文明開化」の大改革から始まり、「富国強兵」の理念の下、日清・日露の二つの戦争に勝利を収めて封建社会から一挙に「一等国」の仲間入りを果たした。

 その後、「大正デモクラシー」の時代潮流によって一定の自由主義化・民主化が図られるものの、昭和期に入ると、対内的には激しい格差の拡大と貧困の問題に苦慮し、対外的には帝国主義政策の全面化によって諸外国との対立がのっぴきならないものとなり、ついには総力戦とファッショ化の時代を迎える。自由主義と民主主義が吹き飛ばされたその先に待っていたのは、壊滅的な敗戦だった。

凡庸な「平和と繁栄」

 これに対して「戦後」はどう語られてきたか、どう語られているか。敗戦・占領の苦しい一時期を越えた後、始まるのは「平和と繁栄」の物語である。すなわち、朝鮮戦争特需によって息を吹き返した日本は、戦災復興をはるかに超えた高度経済成長を実現し、経済大国の地位を得た。言い換えれば、「一等国」の地位を早くも1970年前後には取り戻した。他方その間に、あの戦争への反省に基づく平和主義は、国是として深く定着した、とされる。

 そしてその後は? 例えば、2年前のある全国紙の元日の社説には次のようなくだりがある。「国際情勢の変動や経済不況、大規模災害など幾多の試練を乗り越え、日本は今、長い歴史の中でみれば、まれにみる平和と繁栄を享受している」(読売新聞、2020年1月1日)。この言葉を取り上げるのは、それがまれに見る卓見だからではなく、凡庸でありふれた決まり文句だからである。

貧しい私たちの歴史認識

 しかし、ありふれているということが正常性を意味するわけではない。否むしろ、いまだに「平和と繁栄」が当然のように語られていることの異常さこそ、ここで特筆すべきものだ。

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白井聡

京都精華大学国際文化学部准教授

 1977年生まれ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒、一橋大学大学院社会学研究科総合社会科学専攻博士後期課程単位修得退学。博士(社会学)。専攻は政治学・社会思想。著書に「永続敗戦論――戦後日本の核心」(太田出版)、「未完のレーニン――<力>の思想を読む 」(講談社選書メチエ)、「『物質』の蜂起をめざして――レーニン、<力>の思想」(作品社)、「国体論――菊と星条旗」(集英社新書)、『武器としての「資本論」』(東洋経済新報社)、「主権者のいない国」(講談社)など。