「新しい資本主義」に欠けているもの

八代尚宏・昭和女子大特命教授
首相官邸に入る岸田文雄首相=東京都千代田区で2022年2月14日、竹内幹撮影
首相官邸に入る岸田文雄首相=東京都千代田区で2022年2月14日、竹内幹撮影

 ウィンストン・チャーチルの名言に「民主主義は最悪の政治形態と言うことができる。これまでに試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けば」がある。この回りくどい表現の真意は、フランスを占領したドイツへの降伏を主張した、当時の英国議会の政治家を批判した前半部分にある。

「国家資本主義」の危険

 これは「民主主義」という言葉は「市場主義」に置き換えても妥当する。岸田文雄首相は「市場競争に委ねる新自由主義で格差が拡大」と唱えた。それは米国企業のように、ストックオプションで高額な経営者報酬を保障し、利益のほとんどを株主に還元させる「株主資本主義」についてのものである。

 他方で、会社の経営陣を年功昇進で決める日本の大企業では、経営者も含めた正規社員の雇用安定を最優先する。そのために非正規社員を景気の調整弁に使うことで雇用や賃金の格差が生まれる。また、リスクを取った積極的な投資活動に乏しいことで、企業利益や賃金水準が高まらない。

 しかし、日本企業の経営力が不十分だからとして、国主体の積極的な産業政策を復活させようとするなら、中国のような国家資本主義に似たものになってしまう。

 その中国でさえ、巨大な経済力が米国を脅かすまで拡大したことの契機は、鄧小平が社会主義でありながら大胆に市場経済を導入し、経済特区で外国資本を積極的に活用したことであった。「市場競争で格差が拡大」というが、競争がなければさまざまな既得権による格差が将来も固定化されるだけだ。

進まぬ改革

 「新しい資本主義実現本部」の資料には、デジタルトランスフォーメーション(DX)の推進や、デジタル田園都市構想がある。しかし、企業のダイナミズムの復活やイノベーションの担い手であるスタートアップの支援には、単に政府のカネを付ければよいわけではない。むしろ各省庁の規制や旧来の中小企業の保護政策が、新興企業の足を引っ張っているという面もある。

 地方への企業移転やテレワークへの交付金が補正予算に盛り込まれた。しかし、多くの企業にとって、テレワークは新型コロナウイルス感染症防止のための緊急処置にとどまっており、必ずしも生産性向上の手段としては見なされていない。

 これはオンライン教育・診療についても同様であり、デジタル化の推進のためには、対面での手続きを前提とした各省庁のさまざまな規制の改革が最優先される必要がある。この「新しい資本主義」には、政府がカネを付ける話ばかりで、少しでも抵抗のある既存の規制の改革はほとんど見られない。

働き方を変える必要

 デジタル技術を最大限に活用するためには、働き方の改革が重要だ。諸外国と比べて日本企業が教育投資にカネを使ってこなかったことは、企業内で働きながらの訓練(OJT)を重視していたからだ。しかし、デジタル技術はそうした長い経験にもとづく技術の伝承を吹き飛ばす力を持っている。

 既存の働き方のままで、単にデジタル教育にカネを付けるだけでなく、これまでの日本的な雇用慣行を暗黙のうちに守ってきた規制を、多様な働き方に中立的なものへと変えることが先決だ。

 労働者が工場やオフイスに限定されず、どこでも、いつでも自由に働けることが基本となれば、そのための労働時間規制の見直しも必要となる。

 現行の労働法制は、工場等で一斉に行動する集団的な働き方を暗黙の前提としており、上司が部下の労働時間を厳格に管理する建前となっている。これを見直し、デジタル時代に不可欠な裁量労働制の拡大への検討が必要である。

薄まる政策効果

 看板の「成長と分配の好循環」を実現するためには、中間所得層の支援を手厚くするだけではなく、他の先進国のように、支援を必要とする貧困世帯を把握する「貧困統計」の充実が不可欠だ。

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昭和女子大特命教授

 1946年生まれ。経済企画庁、上智大教授、日本経済研究センター理事長、国際基督教大教授などを歴任。著書に「日本的雇用・セーフティーネットの規制改革」(日本経済新聞出版)「脱ポピュリズム国家」(同)「シルバー民主主義」(中公新書)など。