ロシア軍のウクライナ侵攻と「平和の配当」の時代の終焉

西川恵・毎日新聞客員編集委員
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訓練を受ける地域防衛隊のメンバー=ウクライナの首都キエフで、2022年3月22日、ロイター
訓練を受ける地域防衛隊のメンバー=ウクライナの首都キエフで、2022年3月22日、ロイター

 ロシア軍のウクライナ侵攻は国際政治潮流の転換をなす点で、その衝撃は「ベルリンの壁崩壊」(1989年)、「米同時多発テロ」(2001年)に勝るとも劣らない。「ベルリンの壁崩壊」が東西冷戦の終結を、「米同時多発テロ」がテロとの戦いという非対称戦争で21世紀の幕開けを告げたとしたら、ロシアのウクライナ侵攻は30年余の「平和の配当」の時代の終焉(しゅうえん)と位置づけられるだろう。

国防費の他分野への振り向け

 「平和の配当」は冷戦終結後の90年代初め、米国で起きた議論だ。冷戦終結によって国防費の削減が可能となり、それを教育や研究開発に振り向けて経済再生を図ろうという主張である。クリントン米政権(93~01年)は「平和の配当」を公約に掲げ、平均して国内総生産(GDP)の6%近辺だった冷戦時代の国防費を2.9%まで下げた。これは財政赤字削減と経済回復に大きく貢献した。01年以降、国防費はテロとの戦いで一時4%台に上昇し、現在は3%台を推移している。

 欧州も米国に勝るとも劣らず「平和の配当」を享受してきた。冷戦時代、「戦争が起きるなら発火点は欧州」といわれたが、戦争のリスクが大幅に後退したことで各国は国防費を削減。フランスは90年から14年までの25年間で20%減り、GDP比で3.4%から2.2%に下がった。

 ドイツはまだ西独だった90年の国防費はGDP比2.7%だったが、統一後は低減を続け、14年に1.2%まで下がった。その後は1.5%近辺にある。欧州諸国の中では国防に力を入れている英国でも、冷戦時代に4%台だった国防費は現在2%を少し上回る程度だ。

経済的な相互依存関係への期待

 「平和の配当」の時代は経済の論理が前面に出て、政治の論理が後景に下がった時代でもあった。ポスト冷戦のグローバリズムの下で、市場経済があまねく広がり、貿易と投資が促進されて経済関係が密になれば、世界は平和で安定すると考えられるようになった。この点で95年に国家間のグローバルな貿易の規則を定めた世界貿易機関(WTO)が設立されたことは象徴的である。

 またそこにはロシアや中国のような権威主義的体制と経済的な相互依存関係を強め、国際社会に組み入れていくことで、人権、民主主義の価値を重んじる国へ誘導していけるとの考えがあった。「経済成長によって中産階級がマスとして育ち、市民社会が形成されれば、これらの国もより寛容で協調的になるだろう」と。

 しかし10年代に入ったころから、この考えに疑問が呈されるようになった。経済の急成長で自信を深めた中国は、逆に自己中心の威圧的な行動が目立つようになった。ロシアは中国よりも権威主義的な度合いが低いと見られ、一時は先進国との間で経済協力開発機構(OECD)加盟への交渉が進められた。しかし14年のクリミア併合で頓挫した。

「目覚めた眠れる森の美女」

 ロシア軍のウクライナ侵攻への欧州諸国の衝撃を「眠れる森の美女がやっと目覚めた」と欧米メディアは表現した。ロシア軍のジョージア侵攻(08年)、クリミア併合などで黄信号が点滅していたにもかかわらず欧州諸国は中途半端な対応に終始し、今回、自分たちが安全保障面で犯した不作為に改めてぼうぜんとした、と。…

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西川恵

毎日新聞客員編集委員

 1947年生まれ。テヘラン、パリ、ローマの各支局長、外信部長、専門編集委員を経て、2014年から客員編集委員。09年、フランス国家功労勲章シュヴァリエ受章。日本交通文化協会常任理事。著書に『皇室はなぜ世界で尊敬されるのか』(新潮新書)、『エリゼ宮の食卓』(新潮社、サントリー学芸賞)、『ワインと外交』(新潮新書)、『饗宴外交 ワインと料理で世界はまわる』(世界文化社)、『知られざる皇室外交』(角川書店)、『国際政治のゼロ年代』(毎日新聞社)、訳書に『超大国アメリカの文化力』(岩波書店、共訳)などがある。