
復帰前の沖縄でバスガイドをしていて、次第に案内に疑問を持つようになった。自分の語り、沖縄戦の紹介は、どうも住民の立場で話していないと気がついた。
軍人の話ばかりしているが、南部には位牌(いはい)だけが置いてある屋敷がいくつもある。この現実はなんなのだろうと疑問に感じていた。
当たり前だった「殉国美談」
当時は沖縄戦で戦死した軍人の遺族が戦跡を訪れることが多かった。だから、戦争の美しい場面を描く「殉国美談」が当たり前だった。私たちもそれがバスガイドとして説明すべきことだと思っていた。
けれども、やっているうちにそうではないことがわかってきた。戦争を体験した人たちから違う、と言われるようになった時に、どこがどう違うのか、と考えはじめた。復帰を挟んで、1972年10月に長女を出産後、職場に復帰してからその思いが強くなっていった。
住民を盾にした軍隊
私自身も両親の戦争体験を聞いていた。戦争が始まった時に軍隊は住民を守ってくれたか、と考えると、どうもそうではない。むしろ住民を盾にして戦っていたことが見えてきた。食料を強奪したり、あるいは米軍に降伏する時に、住民を先頭に立てて出て行く状況があった。
軍人の立場だけを説明するのは沖縄戦を本当に語ったことにはならない。その時に住民がどうしていたのか、ということを語らなければならない。それが平和バスガイドの大きなきっかけだ。
真実から逃げない
真実から逃げずに、現実をどう伝えていくかを考えると葛藤が始まった。自分たちの父は、兄は沖縄戦でがんばったのに、なぜこういう話をするのですかと言われる。でも沖縄戦は美しい物語だけではない。県民も犠牲だけではなく、加害もある。朝鮮の人たちを差別することもあった。戦争に美談はないことをしっかり語っていくことが従来のガイドとは違うところになった。
もちろん会社は反対した。「なんでこんなガイドをするのか。会社のテキストの通りではなくて、なぜ違う話を始めるのか」と言われ、ものすごい圧力があった。けれども、他の会社のバスガイドにも同じように感じている人たちがいた。みなで勉強会をしながら、平和バスガイドを広げてきた。
いたたまれなかった復帰の日
復帰した72年5月15日はおなかが大きかった。最初は家でテレビを見ていたが、いたたまれなくなった。…
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