日本国憲法が制定された時、沖縄にはまったく情報が入ってこなかった。ガリ版刷りで沖縄に持ち込まれ、貴重なものだったので、手元に置いておきたいと思った人は、写経のように書き写してから、次の人に渡したそうだ。それほど沖縄にとって日本国憲法はインパクトがあった。
私は小学校5年生だった1964年に日本国憲法を知り、これがあれば沖縄は救われると思った。前文と9条を読み、これが沖縄を救うツールになると思った。その衝撃が憲法学者を志した理由だ。
憲法があれば米軍はいらない
沖縄の生活は米軍の支障にならない範囲でしかできない。米軍が事件や事故を起こして住民が犠牲になっても裁判は起こせない。琉球政府に立法院があって法律を作ることができても、米民政府長官である高等弁務官布告の範囲内でしか有効ではない。市町村長は選挙があっても、琉球政府行政主席は米民政府が任命する時代が長く続いた。
そのような沖縄から日本国憲法を見ると、我々が要求していることそのものが書いてあった。平和主義と基本的人権と国民主権が沖縄にあれば、米軍はいらない。沖縄県民が憲法を非常にリアルなものとして感じたから、復帰運動は「日本国憲法の下に復帰する」運動になった。
幻想だった
「沖縄の人は憲法に幻想を抱いている」とよく言われる。しかし憲法に書いてあるのだから、憲法に基づく政治をしていると思うのは当然だ。しかし復帰してみると日本政府はそうではなかった。幻想だったのは憲法ではなく、政府のほうだった。
日本政府は沖縄が求めてきた「憲政」から、どんどん外れていく。米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の名護市辺野古への移設では、埋め立てに反対する県知事の行政処分を政府が取り消せと言う。
地方のことは地方が一番よく知っている。…
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