ウクライナ侵攻で破綻したロシアとの「仲介」外交

中村登志哉・名古屋大教授
  • 文字
  • 印刷
リトアニアに展開するドイツ軍を訪問したショルツ首相(中央)と、リトアニアのナウゼーダ大統領(中央右)=リトアニア南東部のパブラデで2022年6月7日、ロイター
リトアニアに展開するドイツ軍を訪問したショルツ首相(中央)と、リトアニアのナウゼーダ大統領(中央右)=リトアニア南東部のパブラデで2022年6月7日、ロイター

紛争当事国に武器供与

 ロシアのウクライナ侵攻で、ドイツは安全保障政策を大きく転換させた。ショルツ独首相は侵攻から3日後の2月27日に開かれた連邦議会で演説し、侵攻をかつてのロシア帝国を再建するための行動の一環と位置づけ、ドイツにとって安全保障上の直接的な脅威があるとした。

 演説では、紛争当事国へ兵器を供与しない従来の原則を覆して、ウクライナに携帯型地対空ミサイルや対戦車火器などを供与することを明らかにした。また、これまで対国内総生産(GDP)比1.1%から1.5%だった軍事費を、2%超に引き上げることも表明した。

 さらに、連邦軍をリトアニアやルーマニアなど対ロシアの最前線に派遣・増派することも明らかにして、欧州連合(EU)の盟主として、各国と協力して北大西洋条約機構(NATO)同盟国の防衛を強化するというメッセージを発信した。

 経済制裁の一環として、銀行間の国際決済ネットワークである国際銀行間通信協会(SWIFT)からロシアの大手銀行を除外することも決めた。また、すでに完成していたロシアとドイツを結ぶ天然ガスパイプライン「ノルド・ストリーム2」の稼働手続きの停止を決めた。このように、防衛だけでなく、包括的に外交安全保障分野で見直しを進めることを明らかにした。

「接近による変化」

 第二次世界大戦の敗戦国のドイツは日本と同様に、「反軍国主義」という軍事機構への不信感が社会に根付いていると指摘されてきた。1990年の湾岸戦争では日本と同様に資金面の支援にとどめ「小切手外交」と批判された。

 その後、憲法にあたる基本法の解釈を改め、NATO域外にも派兵できるようにした。アフガニスタンにも派兵し、軍事行動に参加したが、非軍事の民生分野で貢献する「シビリアン・パワー」としての活動を精力的に展開し、国際社会にアピールした。

 こうしたドイツの外交方針の基本は、東方外交と相互依存だった。1960年代後半から70年代初めに当時のブラント首相は、それまでの方針を転換させ、東欧の共産圏との関係正常化を進める東方外交を展開した。この方針の根底には「接近による変化」という理念がある。交流や経済的な相互依存を高めることで、民主化を促すという発想だ。さらに相互依存を高めることで、軍事攻撃など戦争を起こす機運を減らし、地域の平和と安定を実現するという考えだ。

 冷戦下でデタントという緊張緩和の国際的な流れもあり、この外交方針は当時の西ドイツを国際舞台の場に引き上げ、経済発展を後押しした。ブラント政権が生み出した東方外交は成功した。その成果は90年の東西ドイツ統一を導いた。この方針は党派を超えて歴代政権に受け継がれ、ドイツ外交の非常に強いバックボーンになっていた。

 冷戦終結後もこの方針は維持され続けた。東西ドイツの統一後、課題となった旧東ドイツ地域の経済発展を促すため、ロシアや中国にも積極的に関与した。市場開拓という実利を求める面もあったが、経済を通じて変化を促す狙いもあった。

侵攻で世論が激変

 ドイツ人のロシア感情を考える時、ロシアに対して、ドイツ統一に同意してくれたという感謝の気持ちも持っていることも認識しておかなければならない。

 そうした要因もあり、2014年にロシアが一方的にウクライナ南部クリミア半島を編入しても、外交の基本方針を変えなかった。このときのドイツの国内世論は、49%がドイツの役割は西側とロシアの仲介を果たすべきだと答え、厳しい姿勢を求めていた米国など西側と歩調を合わせるべきだとする46%を上回っていた。ドイツ人は自国を、米国など西側諸国の一員というより、米国とロシアの間に立つ仲介者と位置づける世論が大きかった。

 ところが、ウクライナ侵攻で、こうした政策が破綻したことが明白になった。…

この記事は有料記事です。

残り577文字(全文2135文字)

中村登志哉

名古屋大教授

 オーストラリアのメルボルン大政治学研究科博士課程修了、博士(政治学)。専門は国際関係論・政治学。訳書に「ドイツ・パワーの逆説<地経学>時代の欧州統合」など。