
自衛隊について、かつては海外での武力行使ができない点が他国の軍隊と違う部分だと政府は説明していた。日本が攻撃を受けた場合しか武力行使はできないことが9条の大きな意味だった。
しかし、集団的自衛権の行使を一部容認した安保法制の制定後は、行使する場面が存立危機事態に限定されている点しか他国の軍隊と異なるところはない。日本の存立に関わると説明すれば、世界のどこにでも自衛隊が出ていくことができるようになった。これは専守防衛を完全に踏み越えている。
限界に来ている9条
戦争が違法化された現在、外国を攻撃するために軍隊を持つ国はどこにもない。自国防衛のための軍隊であることは日本と変わらないし、ロシアによるウクライナ侵攻のような侵略行為は国際法、国際社会が許さないのだから、専守防衛を掲げるだけでは、他国と異なる平和主義にはならない。
現在の法制や自衛隊の規模などに照らすと、戦力不保持や交戦権否認を定めた憲法9条はもはや限界に来ている。抑止力を含めて十分な軍事力を備える必要があるのなら、9条改正の必要性を正面から説明すべきだ。
そうではなく9条を守ると言うのなら、何が戦力で、憲法上保有が許される自衛力がどこまでか、日本の「専守防衛」と他国との違いは何か、明確にする必要がある。平和主義の看板を掛けたままで9条を形骸化していくのは、法治国家として、立憲政治として好ましくない。
集団的自衛権を行使すれば、当然自衛隊員が犠牲になることもある。外国の兵士を殺傷することもある。その覚悟があるのか、国民に問うべきだ。
平和主義と相いれない
岸田文雄政権が打ち出した防衛費の増額によって、9条が目指すものとの隔たりがいっそう大きくなる印象がある。日本の経済規模を考えれば、国内総生産(GDP)比2%はかなりの額になる。このような軍事大国化は、9条が企図した平和主義と相いれないのではないか。
自民党の9条改正案は論外だ。戦力不保持を定めた2項を存置しながら、自衛権行使のための軍隊を認めるのは矛盾そのものだ。自衛隊が軍隊、つまり戦力であることを明確にしたうえで、どこまでやれるのか、どのようにコントロールするのかを議論すべきではないか。政府が保有を目指す反撃能力も含め、自民党は「9条は時代遅れだ」と正直に訴えるべきだ。
国民は熟…
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