
近年、米国では「Z世代」の若者を中心に、表現の自由に対する疑問が広がりつつあるという。
これは日本でも同様で、他人を攻撃し、あるいは差別・偏見を助長することを、表現の自由の名のもとに野放しにしてよいのかという声はしばしば聞かれる。
筆者自身の最近の経験でも、大阪駅に掲出された広告ポスターについて、ある元国会議員が「性の商品化」だと指摘した件について、(本紙ではない)記者から取材を受けた。そこでは、巨大ターミナル駅の構内という公共空間において、女性蔑視的ともとられるイラスト(もっとも、この件ではイラストが性的なものといえるかどうかについても異論があった)を大々的に掲示することが許されるのかが問題となった。
公共空間での表現の限界については二つの相反する考え方がありうる。公共空間だからこそ最大限の自由を、という考え(以下①とする)、公共空間だからこそ誰もが傷つかない表現を、という考え(以下②とする)である。
どちらが正しいのか。はっきりした結論を出すことは結局のところ難しく、試行錯誤を続けるほかないのではあるが、それでも、場面を分けて考えることによって一定の整理はできるだろう。
まず、公権力の規制との関係では、①の考え方が妥当する。これが憲法の表現の自由論の本来の土俵である。表現の自由には最大限の保障が必要であり、深刻な弊害がない限り規制できないというのはこの場面での話である。
ただし、先ほどの事例とは離れるが、アルゴリズムの働きによって深刻化されたネット上のヘイトスピーチや誹謗(ひぼう)中傷問題など近年の状況を踏まえると、これまで、規制が可能となる「深刻な弊害」を狭く考えすぎてきたのではないか、という疑問も無視できない。
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