苦痛を与え「音を上げさせようとする」日本の入管行政

安田菜津紀・フォトジャーナリスト
安田菜津紀氏=後藤由耶撮影
安田菜津紀氏=後藤由耶撮影

 「担当さーん」「担当さーん」「担当さーん」……。

 絞り出すような声が、小部屋に響く。インターホンごしに「今すぐには行けない」「自分で少し頑張って」などのやりとりが続いた。

 2021年3月、名古屋入管に収容中だったスリランカ出身のウィシュマ・サンダマリさんが亡くなった。その責任を問うため、遺族による国家賠償請求訴訟が昨年から続いている。

 ウィシュマさんが最後に過ごした居室の監視カメラ映像が295時間分残っているとされているが、国側は約5時間分のみを裁判所に提出した。私は名古屋地裁で閲覧申請し、その映像を視聴した。

 「担当さーん」とウィシュマさんが懇願するような声をあげ続けるのは、21年2月26日の早朝だ。朝5時すぎに、ベッドから転落してしまったウィシュマさんが、職員を呼んでいた。この時点ですでに、体の自由がほぼきいていないように見える。

 11分以上がたち、2人の職員が来るも、ベッドに引き上げることを諦め、床の上の毛布の上にウィシュマさんを寝かせた。体が毛布に乗りきらず、素足が2月の床の上にべたっと着いたままの状態だが、別の毛布で足をくるむこともなく、彼女たちは出て行った。

 この場面を視聴したことがある、ウィシュマさんの妹ワヨミさんは、以後、浴室などの小さな部屋に入ると、「たんとうさーん、たんとうさーん」と、ウィシュマさんが叫ぶ声が響いてくる感覚に襲われるようになったという。

 私が最も衝撃を受けたのは、亡くなる前日、3月5日の映像だった。ぐったりと横たわり、時折うめき声をあげるウィシュマさんの横で、看護師と職員たちが「談笑」しているのだ。

 「(外部病院の医師が)かっこいい」「(他の医師は)ぴちぴちのギャル系」――。そして苦痛の声をあげるウィシュマさんに「痛いのが分かるのはいい」と明るい声で応じるのだった。

 亡くなった当日の3月6日、午後2時過ぎ、ウィシュマさんはもう、呼びかけにも微動だにしない。「指先ちょっと冷たい気もします」と報告を受けた、別室にいると思われる職員は、インターホンごしに「あ、そう、脈とれるかな」と緊張感なくやりとりを続けた。

 男性職員なども加わり、皆で名前を呼んだり、腕を引っ張ったりと、体の反応を試す。なんの反応も示さないウィシュマさんの身体をただ「いじっている」様子が痛々しい。

 それでも、救急車はすぐに呼ばない。「いつもだったら……これで痛いって言うんですけど」と1人の職員が言う。「痛がる」ことを生存確認の方法にしていたのだろうか。

 ここに映る職員たちが、とりたてて「悪人」に見えないことに、むしろ恐怖を覚えた。…

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フォトジャーナリスト

 1987年生まれ。認定NPO法人Dialogue for People 副代表。東南アジア、中東、アフリカ、日本国内で難民や貧困、災害の取材を進める。著書に「故郷の味は海を越えて―『難民』として日本に生きる―」(ポプラ社、19年)、「写真で伝える仕事―世界の子どもたちと向き合って―」(日本写真企画、17年)、「君とまた、あの場所へ―シリア難民の明日―」(新潮社、16年)、「それでも、海へ―陸前高田に生きる―」(ポプラ社、16年)など。