人生が狂った、というか、すべてリセットされた

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 では、お酒以外のこだわりと言いますと……。

 「ビートルズですね。中学2年生の時の出会いから現在まで、ずっと消えたことがない。この出会いがなければ、明らかに僕は今こんなことをやっていなかった」

 私は井上さんより一つ年上ですが、確か中学生のころ、友達の家に遊びにいったときにラジオから騒がしい歌声が流れていて、それがデビューしたてのビートルズというグループだと初めて知りました。おそらく「抱きしめたい」の「♪アイウォナホールドユアハンズ……」と張り上げるところだったかと。

 「僕の出会いは1964年、中学2年生の時です。その年はビートルズがアメリカデビューを果たした年で、つまり世界デビューした年です。それまでイギリスのバンドはアメリカでは売れない、と言われていたんです。それにビートルズ主演映画が初めてできて、それが世界で公開された年でもあります。原題は『A HARD DAY'S NIGHT』、8月1日に封切られた日本のタイトルは『ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!』でした。当時はそんな映画に行くのは学校で禁止されていましたが、友人が僕を無理やり誘って一緒に行こうと。その頃の僕はビートルズのことはほとんど知りませんでした」

 映画は好きだった?

 「はい。でも、行って大変後悔しました。理由の一つは、入場料金150円は痛い! 当時の中学生にしては大金でしたから。もう一つは、スクリーンは見えない、音は聞こえない。館内の8割から9割は女の子で、映画が始まると全員立ち上がって、キャーキャー叫び始める。『座れ、バカ野郎!』と言っても全然ダメでした」

 どこの映画館でした?

 「当時、僕は赤坂に住んでいて、確か青山にあった封切り館だったと思います。ほぼ真ん中の席でした。その映画を上映した全国の映画館のシートが、女の子によってビリビリに破かれたそうですよ」

 それで井上少年は?

 「絵(スクリーン)は見えない、音は聞こえない、座れと言っても全然ダメ。そのうちにだんだん気分が悪くなって吐きそうになってきた。でも、そんなとき、館内の騒音とは違って、ものすごくきれいな曲が聞こえてきたんです。それが『If I Fell』(恋に落ちたら)という曲でした。ハーモニーが好きだったから余計に気に入った。隙間すきまから見えるビートルズの映像もカッコよかった。ドカンとショックを受けました。だから、映画を見ての帰りに『ハンター』という名前のレコード屋さんに寄って『ビートルズのイフ・アイ・フェル、ありますか』と注文したら、『ああ、アンド・アイ・ラブ・ハーのB面ですね』とドーナツ盤を出してきたので買って帰りました。これが僕のビートルズとの出会いです。これで自分の歴史がすべて変わりました。僕の人生が狂った、というか、今までの自分がすべてリセットされた感じでした」

 ビートルズとの出会いは、そんなにすごい衝撃だったんですか。人生を変える一曲だったんですね。

 「当時の日本社会では、ビートルズの曲自体が“不良”の音楽でした。だから、その後、おふくろが学校に呼ばれて、先生から『おたくの息子さん、不良の傾向がありますよ』と注意されたくらいです。僕はそれまで小学校の1〜3年でバイオリンを習い、4〜6年は神田にあったフレーベル少年合唱団に入って、ずっとコーラスの一員として歌っていました。うちは父親が牧師で、家族はキリスト教の教会に住んでいました。クラシック音楽の環境の中で“純粋培養”されていたんですね。だから余計にビートルズの曲にドカンと来たんだと思います」

 1950年代後半から60年代前半にかけ、アメリカから入ってきたロカビリーが日本で熱狂的なブームでした。エルビス・プレスリーやポール・アンカといったロック・ポップス歌手が人気でした。そういう流行とは無縁だったんですか。

 「ほとんど知りませんでした。聞いてもいなかった。あの頃のロックンロール派の音楽とビートルズの音楽とは明らかに違いがあった。メロディーがしっかりしていて、ハーモニーもよかった。当時はロックンロールは子どもの精神をむしばむ悪い音楽だという考えが広がっていた頃ですが、その後次第にビートルズはそんなに悪い音楽じゃない、という感じが大人の中にもポツポツ出てくるようになったんですね、今から思うと」

 60年代は、「ロック=長髪=不良青年」という図式がまかり通っていた時代でしたね。

 「僕が高校に行ってからも、長髪にしていた男子生徒が何人か、教室でみんなの前で、先生にバリカンで刈られて坊主頭にされていました。1966年にビートルズが初来日して、日本武道館でコンサートを開いた時も、学校からは『絶対に行ってはならない』とお達しが出ていました」

 井上少年は?

 「僕は行きませんでした。まあ、学校のお達しがあったからというわけではなく、ジョン・レノンがファンに向けた言葉があるんです。『僕らを見たければコンサートに来い。僕らの音楽が好きで聴きたければレコードを聴け』と。それなら僕はレコードを聴くと。ただ僕は赤坂に住んでいて、ビートルズが泊まった当時の東京ヒルトンホテル(今のザ・キャピトルホテル東急)が近くにあったので、ホテルまで歩いて行ったんです。ホテル周辺には女の子がブアーッといっぱいいて、上を見上げて、窓から人が見えたらキャーって叫ぶ。警察官が拡声機で『みんな帰りなさい!』と呼びかけている。中にはテキヤのおっさんがいて、『ポールが寝たシーツ、あるよ』と切れ端を包んだ袋を1個300円か500円といった法外な値段で売りに来ていました」

 運命を変えた出会い、その後はどうなりましたか。

 「僕はビートルズになりたくて、ビートルズを目指しました。いや、ビートルズを超えてやると。高校に入って仲間を見つけバンドを作りました。僕はぶきっちょでギターが弾けなくてボーカル担当、テノールでした。少年合唱団をやっていましたから、メロディーよりハーモニーを重視して曲を選んで、文化祭で演奏しました。ビートルズの新盤『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』が初めて世界同時発売されるというので、行列に並んで買って、それを聴いた瞬間、おそろしいショックを受けました。第二のショックです。あ、僕はビートルズになれない、超えることはできない!と」

 本気で超えようと思っていたんですね。

 「今では笑い話ですが、こんなものを作られたらおしまいだ、もう超えられない、とその時は真面目に思ったんですね。それまでアイドルだったビートルズが、その瞬間、神の存在になった、と感じました」

 それでも、ビートルズ・メロディーは歌い続けた?

 「はい。ビートルズの曲はすべてそらで歌えますし、三重唱のスリーパートも全曲そらで歌えますし、人に教えられます。僕は音をつかまえるのが得意で、今でいう耳コピが得意でした。それが役に立ったのが何十年後かに、作家仲間の結婚披露パーティーでビートルズの曲を歌おうということになった時。宮部みゆき、山崎洋子、島田荘司と僕の4人で、『ノーホェア・マン』(ひとりぼっちのあいつ)や『イエロー・サブマリン』など数曲を歌おうという趣向です。なかなか全員が集まって練習する時間がないからと、僕がそれぞれのパートのテープを作って送り、それぞれが自宅で練習して、一度だけ島田さんの家に集まって全員練習しただけで本番に臨み、いいノリで歌えました」

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