人間って意外と何とかなるもんだなと

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 作家デビュー以来16年、着実に著作を増やして、単行本も近く20冊になりますが、3年半のホームレス時代の生活習慣が今に残っていることはありますか。プラスもマイナスも含めて。

 「そうですね、ネガティブといえば、あの頃に水虫になったのが、今も夏場になると出てくることかな。お金は500万円持って放浪生活に入りましたが、この生活からいつ元に戻れるかわからなかったから、食費などお金はいつも切り詰めていました。それで、食事はお粗末なもので、300円のミニうどん1杯で済ませたり、夜はホットケーキ一つといった具合でした。今から思うと、かなり飢えていましたが、それでも病気にもならず何とかやっていけてましたから、人間って意外と何とかなるもんだなと思いましたね。週2回しかカプセルホテルに泊まらないと決めていたので、それ以外は始発電車内で寝ていましたから、横になって寝るのは週2回だけ。それでも腰を痛めることもなかったから、人間って強くできているもんだと実感しました」

 作家になって経済的なゆとりができてくると、あのころの反動でぜいたくな食事をとったりはしませんでしたか。例えば、中華料理で満漢全席を注文したり。

 「いやいやそれは……。放浪生活中、執筆が進み原稿用紙が500枚くらいになると、だんだんリュックが重たくなってきて、そんなリュックを担ぎながら、湯島から本郷のほうに坂道を上がっていくと、有名なすき焼き店があって、一度は行きたいなと思いながらもいつも素通りしていました。作家になってからも行っていませんねえ。あの頃はいつも腹をすかせていまして、食べたいものがある時は、図書館に行って食に関する本を何冊かデスクに積んで、グーグー腹を鳴らしながらカラー写真を見るだけで我慢していました」

 拝見すると、今の体形も中年太りではありませんね。身長、体重は?

 「175センチ、50キロ台後半で、メタボの心配はありません。あの頃の粗食生活は1日1000キロカロリーでしたが、それが逆に良かったんだと思います。今もそれくらいです。朝8時半に仕事場に行ってから、深夜2時ごろまでずっといる生活ですが、仕事場ではコンビニ弁当が多いですよ。カレーとか丼ものとかパスタとか。1日の摂取カロリーは1000キロカロリーちょっとでしょうが、体調はいいんですよ。粗食に耐えられるベースが、あの頃にできていて、それが自分に合っているんでしょうね。我が家は、父は僕が1歳になる前に亡くなって、母が姉と僕を育ててくれた。そんなに貧乏ではなかったとは思いますが、やはり貧乏性なところがあるのかもしれませんね」

 健康に無頓着、というわけではないんですね。

 「ええ、僕は若干“健康オタク”でして、脳や体にいいというものは、すぐ試します。例えば、健康にいいというオイルを注文して毎日少しずつ飲み始めてから7、8年、疲れを感じたことがありません。4、5年前にヨガを寝る前にやり始めてから、腰痛も肩こりも足のしびれもなくなりました。今、変な多幸感を感じています」

 酒とたばこはいかがですか。

 「アルコールは嫌いじゃないけど、あまり強くはないですね。放浪中も月に1度くらいにコントロールしていました。今は自宅では飲まず、家族で外食する時くらいかな。たばこは昔から吸っていました。ホームレス時代は1時間に1本と決めて、1日1箱でした。今もそのくらい吸います。以前は手書きでしたが、今はパソコンで執筆しています。1日に23枚くらい書いて、今日はいっぱい書いたなというときなども、欠かせない存在ですね。まあ、かみさんからは『たばこ、やめたら』と言われていますが、一日の楽しみですからね」

 一日の大半を仕事部屋で過ごしていると、息抜きはどうされているんですか。

 「家に帰れば、40歳になってできた一人息子と遊ぶのが楽しいですが、忙しいとなかなか時間がとれなくて。わりと散歩に出ます。昼よりは夜が多いです。歩いているときにプロットがわいてくることがあって、街の風景がない夜のほうが集中できます。といっても、散歩何十回に一回程度ですけど。深夜3時ごろ歩いていると、結構今は老人が多く歩いていますね」

 

 さて、50歳というと、作家としても脂が乗る年ごろ。これから、どういうものをお書きになりたいですか。

 「父方の祖父が戦前、朝日新聞社の航空機のパイロットをしておりまして、最後の航空部の部長でした。よく中国大陸から日本へ原稿を運んだり、時には北原白秋ら文学者を乗せて、空から見た景色を歌にして記事にしたりしていたそうです。祖父自身も俳句をやっていて、俳号『霜鳥(そうちょう)』といって、戦後アメリカ軍に航空管制を敷かれたことを嘆いて詠んだ『この空はわが空ならず秋の空』という、割と有名な句を残しています。父もJALに勤めていたので、まあ親子3代あぽやんの血筋だったんでしょうね。できたら僕が50代のうちにパイロットだった祖父の話を基にして、ミステリー仕立てにした小説を書きたい。あの時代背景や歴史も資料を調べないといけませんが、あくまでもフィクションとして書いてみたいですね」

〈次回は11月2日(月) 湊かなえ氏掲載予定〉

 

新野剛志(しんの・たけし)
1965年東京都生まれ。立教大卒業後、旅行会社に就職。成田空港などに勤務した後、突然退職し放浪生活に。99年にホームレス生活中に書き上げた「八月のマルクス」で第45回江戸川乱歩賞を受賞しデビュー。2008年「あぽやん」が第139回直木賞候補に。近著に「明日の色」「キングダム」など。

取材を終えて  ジャーナリスト 網谷隆司郎
 大学新卒者が企業に就職して3年後にはその3割が退職する。そんなニュースが「この就職氷河期にもったいない」という声とともに受け止められたのは、20年以上も前だったろうか。状況はグローバル時代といわれる今も、あまり変わっていないように見える。
 世間からいい会社と言われようと、勤めている本人が「イヤだ」というならしょうがない。「もっと辛抱しないとダメだ」「はじめから面白い仕事なんかない」という旧世代の我慢の哲学も、新世代には通用しないようだ。
 戦後復興から高度経済成長を成し遂げた主力は、戦前世代と戦後生まれの団塊の世代。画一規格の大量生産を得意とする時代だった。大手の企業に入って高給を保証される生活が成功イメージ、勝ち組として通用した。
 だが、バブル経済崩壊の1990年あたりを境に、日本経済の構造転換が強く叫ばれ、企業も生き残りにがむしゃらな日々に入った。そこで働く人たちも、次第に「人間から人材へ」と変容させられていった。会社の利害追求と社員の幸福希求との間のギャップが、より広がっていった時期といってよいだろう。
 新野剛志さんが海外旅行を売る大手企業を辞めたのは、そんな時代の真っただ中の95年だった。潔いというか、カッコいいというべきか、ある日突然、会社に何も告げずに出社せず、自宅からも姿を消して、誰からの連絡も断って、自ら望んで住所不定・無職の生活に飛び込んだ。ちょっとハードボイルド気取りのホームレス志願である。
 理由は、インタビュー中にあるように、仕事内容が気に入らない、といって仕事から逃げている自分がイヤになった、ということらしいが、すぐに転職する気持ちもなく、2年半という期限付きで、自らに失踪・放浪生活を課した。いま風に言うと、自分の人生をリセットしたいという気分だったのだろうか。
 放浪生活という言葉からは、足の向くまま気の向くまま、あちこちを歩き回って、自分のやりたい放題を勝手気ままにやり続ける無頼派の自堕落な日々が浮かんできそうだが、私が感心したのは、新野さんのストイックともいうべき、日常生活の自己管理だった。食事は基本的にファミレスの安価なものを取り、1日1000キロカロリー摂取の粗食ベース。深夜から早朝まで店で粘って、始発電車の車内を寝室代わりにして宿泊代を浮かす。好きなたばこも1時間1本と決めて守った。
放浪生活を始めてすぐに「江戸川乱歩賞を取ろう」という目標を決めて、その一点に集中できたことが大きい。東京都内のファミレス、カプセルホテルを転々と周遊する日常が3年半続けられたのも、その夢に懸けた自分が信頼できたからだろう。成功のあてはない。けれど、自分で選び取った人生行路だ。不安と心配の重さはあれど、会社内で与えられた仕事をイヤイヤやっているよりどんなに軽やかな気分だったろう。
 最近の若者の気分と共通するものがありそうだ。私の知人で編集者が何人かいるが、多くはいくつかの会社を渡り歩いている。でも仕事の内容は変わらない。転社はしても転職ではない。
大手企業というミエや高給待遇というエサはもちろん魅力だろうが、それ以上に自分がやりたいことを仕事にしたい、イヤイヤ働くよりやりがいを感じられる仕事に関わっていたい、という若者たちが少しずつ増えている。就職難をも超えたうねりがある。
 日本社会の中で今や4人に1人以上となった65歳以上の世代からは、「何を甘いことを……」という嘆息が漏れてきそうだが、画一規格の大量生産経済では乗り切れなくなった21世紀の日本では、「自分にしかできないことを仕事にしたい」という一人一人のささやかな思いが、未来の何かを切り開いていくエネルギーになるのではないか。
 新野さんの放浪生活が新時代の幕開けになった?とまでは言わないが、種田山頭火や尾崎放哉といった放浪詩人の生き方がブームになっている現代、「管理社会の息苦しさからの逃走」という決まり文句だけで片付けずに、自分らしさを表現したい世代の模索が始まっている、という新しい息吹を感じ取ったほうがいいのではないか。

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