「全力を出し尽くせば見えてくるものがある」

北大に行った第一の目的は柔道だったんです

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柔道が好きで好きで、愛知県の高校から2浪しながら北海道大学に合格、早速柔道部に入って、「七帝戦」で闘いたいとの熱い思いで一心不乱に青春時代を送った増田俊也さん(52)。猛練習に明け暮れる、その汗と涙の青春記は「七帝柔道記」(角川書店、2013年)に詳しい。これだけ精魂打ち込めるのか、と読んでいて息苦しくなるほどだが、単なる格闘技の記録にとどまらない迫力がある。古い言葉を使えば、心・技・体。運動・スポーツの肉体鍛錬を通じて精神力も強化され、魅力的な人間性も培われる。そんなことまで感じさせる内容で、柔道の試合の描写にはハラハラドキドキ、思わず「もう少しだ、頑張れ!」と声を出して応援したくなるほどの臨場感がある。そんな武道家作家?に仕事部屋を訪ねてのインタビュー。

 北大には水産学部に進むコースで入学したそうですね。

 「学問としては動物生態学をやりたかったので選んだ学部です。僕は動物学と文学という二つの異なる分野に子供のころからひかれていて、文学部か水産学部か、あるいは農学部かと選択で迷っていたんです。結局、理系を選んだのは、当時、世界の最先端をいっていたヒグマ研究者の集まり『北大ヒグマ研究グループ(略称・クマ研)』の存在がありました。この団体は、当時はまだできて日が浅かったけれども、各学部を横断して学生や大学院生を含めた若手研究者がさまざまな研究の端緒をつかみはじめていました。柔道をやりながらそこに所属して将来は動物生態学者にという気持ちがあって、はじめは勉強する気もあったんですが、クマ研も活動時間などがタイトで厳しい団体であり柔道と両立するなんてとてもできないと知り、その後はずっと柔道ばかりでした。だから結局、水産学部のある函館に行かずに終わりました。ハワイやアラスカなどに航海する水産学部付属の練習船『おしょろ丸』にも一度も乗らずじまいでした。実物も見たことはありません。ただ、まったくその青春に後悔はないです。北大柔道部で仲間たちと過ごした4年間は忘れられません。当時は京都大学が10連覇の全盛時代で、ほかの大学はみなこの京大をいかに倒すか、それしか考えていなかった」

 柔道の「七帝戦」に勝ちたいという狂気のようなものが「七帝柔道記」という本から強烈に伝わってきます。七帝戦とは北大、東北大、東大、名大、京大、阪大、九大の旧帝国大学の柔道部が、毎年行う勝ち抜き戦のこと。寝技中心という、今の講道館流の柔道とは異なる内容なのがまた面白い。結局、増田さんは4年間、この柔道にすべてを打ち込んだということですね。

 「北大に行った第一の目的は柔道だったんです。浪人時代、自宅の机の前には『目標、北海道大学柔道部』とマジックで書いた張り紙がありました。井上靖先生の自伝的小説に『北の海』(新潮文庫)という作品がありますが、僕たちがやっていた七帝柔道というのは、15人対15人の団体戦で、まさにあのなかに出てくる柔道をそのまま受け継いだ寝技中心の特殊なものです。これにすごく憧れた。当時の北大はまず全員が教養部に所属して、2年生の後期から学部に進学するシステムだったので水産学部に進学すると海のある函館に行かなくてはいけないんです。そうすると柔道の練習量が減ってしまうから、わざと留年を繰り返してずっと札幌にいた。入学3カ月目には、やっぱり文学部に入るべきだったかなとか転部も考えはじめて、そのうち教養部の授業があまりにつまらないので卒業する気もなくなってしまった。柔道をやるために入ったんだし、引退してからいろいろ考えようくらいの気持ちでした。1度だけ農学部教授の柔道部の先輩が『柔道部OBで水産学部教授の先輩が、後輩で俺のあとを継いで海鳥の研究者になりたいやつはいないかと言ってきた。おまえどうだ』と声をかけてくれて、柔道引退後に函館に行こうかなと悩んだ時期もありましたが、すでにそのころは柔道と読書中心の生活を送って、自分の志向が自然科学から離れつつあったかもしれない。動物関係の仕事は文筆でもできるではないかと思いはじめ、あるいは良質のノンフィクションを続けて読んだり、中南米文学にはまったり、芸大に興味を持ったり、さまざまありました。結局、4年目の7月に七帝戦が終わった段階で、退学届を出しました。僕は4年目までずっと教養部に居続けたので、4年目2年のまま退学したことになります。2浪して入学しているので中退時に24歳でした」

 七帝戦に、柔道に殉じた、という形になりましたね。

「すでに24歳でしたから、それほど単純でもなかったですけどね。『七帝柔道記』(角川書店)のなかに沢田征次という3浪で入学してきた大人びた同級生が出てきますが、彼は1年で部を辞め、さらに大学も辞めてしまった。その後、僕も彼のあとを追うように少しすさんだ生活になっていました。好きな女もいたし、芸術や建築とかにも興味が広がりはじめていました。もちろん子供のころも当時も、もっとも強く志向していたのは作家でした。でも作家になりたいなんて思っても雲をつかむようなことだから、そこで具体的に考えるなんてできなかった。まずは少し休んで考えたかった。とにかく、柔道は引退したんだからもうここにいてもしょうがないなと。僕が教養部の事務室に退学届を出しに行ったとき、たまたま窓口を開けたら出てきた職員が、坊主頭のおじさんでした。恵迪寮の学生たちを中心に、教養部生たちが一番嫌っていた厳しいおじさんです。教務課のトップの管理職だったんだと思う。学生の言い訳をいっさい認めず、どんどん留年させる。血も涙もないって評判でした。だから『嫌みを言われるかもしれないな』と思いながら退学届を提出すると、『なんでやめるんだ』と向こうのほうが驚いて。僕が『もともと北大には柔道をやりに来たので、もう十分にやりましたのでやめます』と言うと、『そうか、君こそが本来の北大生だ。昔はそういう北大生がいっぱいいたんだ』と感激してくれましてね」

 あははは。そのおじさん職員は当時の空気を懐かしがっていたのかもしれませんね。「何とかバカ」という人種が堂々と生きていられた古き良き時代を。

「数年前、ある知り合いの教授に聞いたんですが、おまえらが学生だった頃は何でこんなヤツが北大に来たんだ、というような学生がよくいたもんだと。東大に軽く入学できる学力を持っているヤツがいるかと思えば、逆にかなり学力が低くて北大に入れたのが不思議なくらいなヤツもいたと。今は学力レベルは全体では上がったけど、平均的なヤツばかりだと、ちょっと嘆くように昔を懐かしんでましたね。さっき話した教養部の人も、僕みたいな柔道ばかりやっていた学生がいたと知って、喜んでくれたのかもしれません。僕を事務室の中に入れて、職員に僕を紹介してくれて、今日の夜はみんなで送別会をやろうと、その晩、近くの居酒屋で開いてくれました。二次会か三次会で女性職員とカラオケでデュエットしたのがすごくうれしかったですね」

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