舞台が大きいほど小説としても面白くなります

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 嗅覚や聴覚や味覚など人間の感覚が意外な展開を呼び起こすという“五感シリーズ”は結構ファンもいるんじゃないですか。日本推理作家協会賞を受賞した「石の中の蜘蛛」(2003年)は聴覚をテーマにした作品でした。「針」は触覚ですね。人が人に触る、痴漢が主人公の。

「あれは僕の弟の子に初めて会った時の経験から生まれた作品です。初めて会ったので、物おじしていたおいを僕が肩車してあげたら急に親しくなったんです。こんなに打ち解けるものかとびっくりもしました。血のつながりとはこういうものかとも思いました。体とカラダのふれあいがもたらすものがあるんだなと」

 痴漢は犯罪ですからいけませんが、今の時代、ちょっとでも触れたらセクハラ!との非難が起こりかねないくらい敏感になっていますね。そもそも体の触れ合いは、もっと人間として意味が深いものなのだと思いますよ。私は少年時代、よく相撲を取っていましたが、男の子同士で体を合わせていると、なぜかお互い仲良くなるもんだという体験をして、それこそ体に刻み込んでいましたから。

「生まれたばかりのチンパンジーの子どもは、母親と離してしまうと死んでしまうのだとか。母親のにおいだけでもダメ。声を聞かせるだけでもダメ。生きるためには、体の触れ合いが絶対に必要だそうです」

 作家として、これからどんな作品を出していきたいですか。

「編集者が書けというなら背中でも足でもかかせていただきますと、言ってはいますけど。最近、警察小説を書いたらどうかと言われて、続けています。最新刊は『誘拐犯はカラスが知っている 天才動物行動学者 白井旗男』(新潮文庫)です。これからは歴史小説を書いてみたいですね。僕は日本史より世界史が好きなんですよ。舞台はドイツなどのヨーロッパ、時代はウイーン会議以降の19世紀。その頃のイギリスやドイツなどの姿が、今の日本のひな型になっているというか、明治維新直後の日本が国家の作り方をヨーロッパから学んだわけですよ。だから、当時のヨーロッパの国々がどうなっていたのかということを描けば、今の日本が抱えている問題点も浮かび上がってくるのではないかと。舞台が大きいほど小説としても面白くなります」

 作家デビューして今年で20年。それ以前はコピーライターとしてやはり20年ほど活躍していました。若い時は何を目指していたんですか。

「僕は大学を出て、大阪の新聞社系広告会社に就職しました。経済学部にいましたので、銀行や製薬会社に行こうかという思いはありましたが、結局、マスコミ系の広告会社に進みました。ところが、新入社員としてすぐに、広告を取って来い、飛び込みセールスしてこい、という。あいさつに行ってすぐにくれるわけもなく、大阪の町を毎日ウロウロしていました。いくつかの会社を訪ねても、窓口であしらわれるだけのこともあり、仕方なく喫茶店で時間をつぶしたりしていました。それで日報には、さも仕事をしたというふうに、どこそこに行ったとうそばかりを書いて出していました。でも、月末には売り上げの数字が出ますから、ウソがばれて上司からつるし上げられたりしました」

 若い人にとっては、確かにセールス活動は不慣れで、大学出たばかりでは世間話もそんなにうまくできないから、初対面の人が大半のはじめの頃は苦労の連続でしょうね。営業マンほどではないと思いますが、私の新人時代を思い出すと、新聞記者も駆け出しのころは父親世代の警察幹部と毎日接するわけですけど、そんなに簡単には親しくなれず、ネタ(いい情報)を得られずにしばしもんもん、鬱々とする期間がありますね。その壁をどう乗り越えるかが、記者一人ひとりの実力・個性になっていくんでしょうが。

「あるとき、大阪駅前のビルに入っている英語塾から生徒募集の案内広告の注文を取ることができました。広告料金は前払いが原則なんですが、依頼主は後払いにしてくれという。会社の上司に伝えると、『お前が初めて大きな仕事を取ってきたんだから後払いでもいいことにしよう』と。新聞に広告が掲載された後、その英語塾に集金に行くと、ガラス戸が全部閉まっているんですよ。おかしいなとビルの管理人に聞きに行ったら、夜逃げしたと!」

 ええ、丸損ですか。

「広告料金がなんぼやったか忘れましたけど、一銭も取れんかった。そのときは、もうこのまま家に帰ろうかと思いましたよ。結局、えらく怒られましたけど、クビにはなりませんでした。でも、その後、ホテルの支配人から広告をもらったり、外国の大使館から独立記念日の広告を集めたり、小学生を集めた旅行の企画を立てたりと、それなりに営業マンとして働きました」

 次第に営業マンとしてのスキルを磨いていったわけですか。

「いやいや、やっとれんわという気持ちでしたけど、といってどうするんやというても、何もない。そのとき、広告という業種は好きやけど、営業ではなくて制作のほうをやったらええんやないかと思いまして、コピーライターを目指すことにしました。大阪にコピーライター養成講座がその頃あって、そこに通いながらどこかの会社のコピーライターになろうと。1級上に中島らもさんがいたのを覚えています」

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