interview
人間国宝内定 講談師 神田松鯉 先生
今をときめく講談師・人間国宝
神田松鯉に迫る!

新宿末廣亭では、年に2回講談師・神田松鯉先生の主任席がある。誘われて聞きに行くようになり、松鯉先生の渋い芸に魅せられた。落ち着いた声、流れるような言い立て、客席に漂う緊張感。寄席では落語や色物の明るさと、それを引き締める講談の緩急が楽しい。松鯉先生の弟子である神田松之丞はラジオでレギュラー番組を持ち、雑誌の表紙を飾り、「最もチケットの取れない講談師」として有名になっている。松之丞もいいけれど、ぜひ彼を育てた松鯉先生にもっと注目してほしい、先生のことをもっと知りたいと思い、インタビューをお願いした。

神田松鯉が講談師になるまで

◎神田松鯉(本名 渡辺孝夫)は1942年(昭和17年)群馬県前橋市生まれ。県立前橋商業高校を卒業後上京し、役者を目指して劇団文化座、民衆舞台などに所属した。このころ声楽も学んでいる。

高校を出て10年役者をやってましたね。新劇、歌舞伎と転々としました。うまくいってたら講談はやってなかったでしょうな。中学・高校の時は詩を書いていたし、なにかの形で自分を表現したかったのかもしれません。親父がいなくてお袋が育ててくれたので、上京するときは泣かれてね。せつなかったね。でもここで行かなかったら生涯お袋の枷の中で生きていくことになる。自分の人生だからと思って、思い切って東京にきました。

新劇を辞めたころに前進座の人と知り合って、「劇団やめちゃって行くところないんだ」と言ったら、「ちょうどいいや、歌舞伎の中村歌門さん(二代目・1913生~1989没)のところで弟子が辞めて困ってる。松竹から給料がでるから」といわれたんです。勉強にもなると思って歌門先生の弟子になって、大部屋で立ち役をやってました。それを辞めた後は自分で朗読朗唱法研究会を友達と作って新聞で団員募集してね。5、6人集まった。でもそれも結局ダメになって。

講談との出会いは先輩のひと言だった

◎講談とは無縁の生活だったが、所属していた劇団で桑山正一に言われた言葉が転機となる。桑山正一(1922生~1983没)は民衆舞台を創設した俳優・演出家。木下順二が主宰したぶどうの会の代表作『夕鶴』の与ひょう役で知られる。映画やTVでも脇役として活躍した。松鯉は民衆舞台の旗揚げ公演に出演している。

役者の基本は朗読なので、訓練のひとつとして色々な名作を朗読するんです。ある劇団にいたとき、菊池寛の『形』っていう作品が好きでずっと朗読してたら、日本を代表する名脇役の桑山正一さんに「おめえの朗読は講談だよ」って言われたんです。

それまで講談なんて聞いたことなかったんだけど、あんまり言われるもんだからじゃあ聞いてみようと思って。最初に(のちに弟子入りする)二代目神田山陽(1909生~2000没)を聞きました。当時は講談だけを聞ける講釈場の本牧亭(上野・1990年閉場)があったんですが、山陽は落語や色物もある寄席にも出ていて、非常に明快だったんですよ。講釈場はシャレを入れたり笑わせようとしたりするとしくじっちゃうんです。堅いのが講談だとされていて、「講釈師がなにヘラヘラしてるんだ」なんて言われる時代ですから。ところが山陽師匠は寄席にも出てるからわかりやすい。これからの時代は明快な方がいいんじゃないかと思って弟子入りをお願いしたら、「しばらく来てみれば」って言われてね。それが27歳のときです。桑山さんの提案が大きな要素ですね。自分のことはかえってわからないからね。

一生の仕事と決めて、講談師を目指す

◎1970年(昭和45年)、通い弟子として二代目神田山陽に入門し、「陽之介」の名で講談師を目指す。決意を固めての入門だった。

初めから一生の仕事にしようということで入った。やってみたらおもしろかったですね。役者と違って全て自分が主役になれる。作、演出、主演、全部自分なんだよ。役者は演出家のコマだから、論争すると演出家のプランに最終的には従わないといけない。でも落語とか講談は全部自分ですから。そのかわり責任も全部自分でとることになりますわな。

◎役者の基礎、文学的素養があったことから、面白いように吸収していった。普通の弟子なら年に三、四席覚えるところ、最初の1年で十七席覚えたという。講談一席の長さはそれぞれだが、30分以上もある話を月一席以上ものにしていったことになる。

まず師匠の家に行って、師匠が目の前で一席やってくれるんです。台本を貸してくれるので、台本をお借りして、当時コピーもないから全部写して、覚えて師匠の前でやって聞いていただく。そうやって、あのころはどんどん覚えましたね。

◎初高座は本牧亭、演目は講談師が必ず最初に習う一席『三方ヶ原軍記』だった。役者として10年以上の経験があったが、高座にあがるとある違いに戸惑ったという。

客席が明るくてやりにくかった。寄席と演劇はまるきり逆。お芝居は客席が暗いけど、寄席や釈場は明るい。それは戸惑いましたね。いまは暗いと逆にやりにくい。お客さんの目を見て話しているからね。お客さんとのやりとり、コミュニケーションがある。目を見れば黙っていてもお客さんの呼吸がわかるんですよ。今でも緊張しますよ。ある種の緊張がないと芸はだめだからね。

上野本牧亭 1981年(昭和56年)撮影 ©毎日新聞社

アルバイトに明け暮れ、苦労の塊だった修業時代

◎講談師は落語と同じように前座、二つ目、真打と階級がある。前座、二つ目は修業時代、真打になれば一人前となり、先生と呼ばれる。高座デビューしたといってもまだ前座の下積み時代。松鯉は当時を「苦労の塊」と振り返る。

月給が出ませんから自分で仕事をめっけてくるしかないんです。師匠は食わせてくれないですからね。師匠のうち行ってお掃除したりすれば朝飯くらいは食わせてくれるけど、自分で収入の道を考えないといけない。いろんなアルバイトをしながらですから体力勝負です。

役者やってたから食えないのは慣れてた。役者はチケットのノルマもあるし寄席より食えないね。芸人は喋るバイトができるから2、3年でなんとかなる。司会が多くて、それで食ってた時代があった。婚礼の司会は1,000組以上やったね。上野のタカラホテルなんかよく行ったな。キャバレーのショーや歌手のコンサートの司会もやったし、はとバスに花のお江戸コースなんてのがあってガイドもした。そのうち講談の仕事も少しずつ入ってきてね。「次のステップにいかないと」と思って司会は止したんです。

ビジネス講談が大ブームに

◎1973年(昭和48年)二つ目に昇進、「小山陽」と改名する。1977年(昭和52年)には真打昇進。入門から3年での真打昇進はかなりのスピード出世だ。真打になって3年目の1980年(昭和55年)、「ビジネス講談」を始め、大当たりする。

ブームは私が作ったんだよ。あのころは忙しかったね。当時、定年になって生きがいがなくなる定年問題が話題だった。三菱電機労働組合から、「いきいきとしたセカンドライフを講談にしてくれ」と依頼され、『惑いからの出発』を作った。それをNHKが取材に来て、評判になって全国から依頼が来るようになってね。例えば 赤穂義士に見る安全管理なんてのを講談にして、どこに吉良は油断があったか、まさかの発想、もしもの発想、それが危ないんだって具体的に事例で示すんです。

◎専門家に教えを請い、参考文献を調べながら次々に講談を作った。中年危機を題材にした『惑える戦士達』、『がんばれ単身赴任』『歴史に学ぶリーダーの条件』『徳川家康の人事管理』『QC講談・秀吉のイキイキ職場』。企業の研修や経営者セミナーなどで月に10日以上全国を飛び回っていたという。

『歴史に学ぶリーダーの条件』は何千回話したかわからないね。信長、秀吉、家康を取り上げて比較しながら、名調子のさわりを入れる。『八甲田山死の彷徨』(新田次郎著1971年)も講談にしたんだ。自分なりに全部分析してね。それを『善悪リーダー心得帳』(神田松鯉著 経営書院 1996年)という本にした。新田先生の奥様の藤原てい先生(ベストセラー作家・1918生~2016没)が喜んでくれてね。お礼の電話をくださったんです。

49歳で名跡「神田松鯉」を襲名

◎1992年(平成4年)49歳のときに神田松鯉を襲名する。松鯉は大きな名跡だ。神田派の宗家は初代神田伯山、松鯉は二代目神田伯山の隠居名である。初代神田松鯉(1843生~1921没)は幕末から大正期に名人と謳われ、二代目松鯉(1885生~1967没)は明治から昭和30年代に活躍した。瀬戸内寂聴の小説『花野』の主人公は二代目松鯉をモデルにしている。

「いつまでも小山陽じゃないな」とは思っていた。師匠はずっと「松鯉を継いだらどうだい」っていってくれてた。そんなじじくさい名前やだなってずっと断ってたの。そのうちこっちも年をとって心境が変化してね。「師匠、松鯉を継がせてください」って伝えました。

二代目松鯉は小説になるくらいネタになる人だったんです。博打も好きだし御曹司だし。松鯉を襲名するとき、二代目をモデルに小説を書いた寂聴先生が口上を書いてくれました。ご自宅の寂庵に編集者が連れていってくれて、原稿用紙3枚書いてくれましたね。

◎襲名披露興行は1992年6月5日に東京・銀座ガスホール、同12日から14日まで四谷倶楽部でおこなった。公演には立川談志師匠(1936生~2011没)も出演している。

そのころ談志師匠が気に入ってくれて何度か家にも遊びに行きました。襲名披露公演のテープはまだあるけど、(音源化しても)神田松鯉じゃ買ってくれないかな(笑)。家族や弟子たちに引き継ごうと思います。

「歳を重ねると力が抜けるようになっていく。
いつか松之丞もわかるでしょうな」

◎松鯉を襲名して27年。若いときとの違いは力の加減だ。山陽師匠からは「とにかく大きい声でやれ、気取ってやってるのはダメだ。年取れば自然に声が出なくなるんだから、これ以上出せないくらい大声でやれ」と教えられた。周りの人から「竹ぼら」(竹で作ったほら貝のような音のする道具)と言われ、「表を通る人がタダで聴いちゃう」と先輩が苦笑したほどだ。

昔は大声で夢中でやってたけどそれがよかったね。今でも声が出るから。いまは力が抜けてきた。歳とともにだんだん抜けてくるんですよ。その代わり当時は汗びっしょりでしたよ。いまは松之丞が汗びっしょりですしね。いまも汗はかくけどかく量が違う。発声も楽な発声をするようになった。昔は無理に大きい声を出そうとするから怒鳴ってるみたいだったね。

連続物への思い、弟子たちに伝える財産

◎現在では8名の弟子を持つ。2003年からNHK「にほんごであそぼ」などTVでも活躍した三代目山陽、2020年の真打昇進と六代目伯山襲名が決まっている松之丞、鯉風、山吹、阿久鯉、鯉栄、前座の松麻呂、鯉花。

弟子にもいろんなタイプがいるね。まじめな子、そうでない子、貪欲な子、言われてからやる子、言われる前にやる子、いろいろです。私が若いころは自分がこうやりたい、これやりたいって師匠に言ってたね。入ったころから「連続物が講談の命」と思っていて、連続物をやりたかったんです。

◎松鯉が入門のころからこだわっているのが「連続物」だ。講談が人気を集めていた明治時代には、長編の講談を連日続けて読み、1ヶ月連続も当たり前だった。講談が下火になり、連日通うお客も少なくなったことから、今では一席で完結する「一席物」が主流になっている。松鯉は十席以上あるものを「連続物」としている。

山陽師匠には「そんな時代じゃない、毎日聞きに来る人なんてもういないんだから」って言われたけど無理にお願いして連続物を教わりました。やな顔されたけどあんまり言うもんだから仕方なく教えてくれて。それが今、財産になってるね。

夢中で仕込んだから、相当数持ってます。義士伝は本伝だけで四十七席、天保六花撰は三十席、水戸黄門は二十五、六席。そういう長編ものを十四、五編。そのほかに一席ものが何十席。連続物が好きだけど一席ものも必要な時があるからね。とにかく山ほど持ってる。それが財産。弟子に伝えられる財産ですな。

1時間ほどのインタビューの間に松鯉先生の口からは名だたる方々の名前が飛び出し、講談、演劇のみならず文学、歴史への造詣の深さがにじみ出る。心地よい声で語られる過ぎ去った日々のエピソードは歴史の中に数多くの講談師、そして松鯉先生が息づいていたことを想起させてくれる。松鯉先生の教養の源はどこにあるのだろうか。また、弟子への思いや教育論についても掘り下げてうかがってみた。

インタビュー・文
(株)内外切抜通信社 河原有希子

神田 松鯉(かんだ しょうり)
1942年群馬県前橋市生まれ。本名渡辺孝夫。県立前橋商業高校卒業後上京し、劇団文化座、民衆舞台を経て中村歌門に入門。1970年二代目神田山陽に入門。1977年真打昇進。1992年に三代目神田松鯉を襲名。日本講談協会(名誉会長)、落語芸術協会(参与)、日本ペンクラブ所属。読売新聞に「季節のことば検定」「講談の流儀」「旅行けば・江戸気分」を寄稿するなど執筆活動も行う。趣味はゴルフ、俳句。2019年に文化審議会より、重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。

  • 1942年(昭和17年)群馬県前橋市に生まれる
  • 1961年(昭和36年)県立前橋商業高校卒業後上京、劇団文化座、民衆舞台を経て中村歌門に入門
  • 1970年(昭和45年)27歳で二代目神田山陽に入門し「陽之介」を名乗る
  • 1973年(昭和48年)30歳で二つ目昇進、「小山陽」と改名
  • 1977年(昭和52年)35歳で真打昇進
  • 1978年(昭和53年)第1回講談奨励賞、第6回放送演芸大賞ホープ賞
  • 1980年(昭和55年)ビジネス講談を始める
  • 1988年(昭和63年)「第29回神田小山陽の会-義経を囲む人々・華と愁い-」で第43回芸術祭賞受賞
  • 1992年(平成4年)「三代目松鯉」を襲名
  • 1996年(平成8年)『善悪リーダー心得帳』を出版
  • 2000年(平成12年)日本講談協会会長を務める(~2005年)
  • 2006年(平成18年)日本講談協会名誉会長に就任
  • 2019年(令和元年)重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定