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古墳と火山と太陽 ~第441回望星講座から~

2020年1月15日掲出

見過ごされがちな事実

 弥生時代や古墳時代の遺跡や古墳のなかには、その場所から眺めた火山や太陽の運行を意識して造営されたものが存在します。実際に遺跡内の神殿遺構が火山を正面に据えていたり、古墳の石室の中軸線が冬至の日に向けられていたりする事例があります。イギリスのストーンヘンジのような世界の有名な遺跡にも、同様の現象を持つ神殿遺構や墳丘墓があることは周知の事実です。定住生活が中心の文化であれば、周辺の景観や環境との相互作用のなか、このような工夫や演出がなされても決して不自然ではなく、人類史全体としてみても稀なことではありません。

 ところが、戦後の日本考古学界は、日本の遺跡や古墳が火山や太陽の運行と関わっているのではないかという見方について、「天照大神を想起させる」「神話は虚構である」「オカルティズムの領域である」「科学的歴史学にふさわしくない」と断じ、極力排除してきました。その意味で、この現象は見過ごされがちな事実と言えるかもしれません。

 しかし、各地の遺跡に足を運び、天文学に則し、科学的に実地検証してみると、その実情が分かってきました。具体例を紹介し、弥生時代や古墳時代の人々の祭祀のありようを見つめます。

 

吉野ヶ里遺跡と雲仙普賢岳

 弥生時代の大型環濠集落遺跡として知られる佐賀県吉野ヶ里遺跡。1986年からの発掘調査の責任者だった七田忠昭氏は、遺跡全体の中心軸線が有明海をまたいだ約64㎞先の雲仙に向けられている事実に気付きました。この遺跡から発見された、祭祀や儀礼に関わると推定される諸遺構は、雲仙に向けた南北直列配置(北墳丘墓―大柱―北内槨大型建物―南の壇―雲仙)をとるという復元案を公表。北内槨(北の集落)の軸線は、夏至の日の出ないし冬至の日の入りラインに沿ったもので、先の南北直列配置の中軸線と北内郭の中央で斜めに交差する関係だと説きました。

 しかし、学界はこの説を無視。現地の確認をせず無視する態度に不自然さを感じた私は、2013年、GPSを用いた実地検証を行いました。結果、七田氏の見解は大筋で正しいことを確認し、ここからは祖霊祭祀と火山崇拝を融合させた吉野ヶ里弥生人の神観念が復元できると考えています。

 太陽の運行と北内槨の軸線との関係の検証には、地球の自転のコマ振り運動(歳差運動)によって異なる現在と弥生時代の日の出・日の入りの方位の算出を試みました。その結果、二千年前の夏至の日の出方位は現在より1度43分南に振れ、冬至の日の入り方位は真北から右廻りに241度30分で、軸線とは1度42分の誤差となりました。判断に迷う微妙な誤差ですが、この遺跡が営まれた初期段階の年代の夏至の日の出方向を点検すると、福岡県嘉麻市の屏山山頂(標高927m)からの日の出となることが分かりました。このことから、吉野ヶ里弥生人はこの地を定住地に選び、幾世代にもわたり居住し、屏山山頂から朝日が昇り続ける情景を見て、太陽の運行が北限に達する夏至を認識した可能性が指摘できます。これもまた七田説の事実関係を正しく押さえた「学問的な真理」だと言えます。北内槨が成立した弥生時代後期中葉(西暦2世紀初頭)以降は、祖霊祭祀と火山信仰との融合を基本モチーフとした、太陽の運行を関連付ける神話の原型が芽生えた可能性も高いと考えます。

 

現在に通じる倭人の心性

 ほかにも、天文学に則して実地検証したところ、火山や太陽の運行を意識して造営されたと考えられる遺跡や古墳が多数あると確認できました。

 女王卑弥呼の本拠地であったとされる奈良県纏向遺跡は、吉野ヶ里遺跡の直列配列を東西方位に転換する形で模倣再現した「東遷」だとみられます。火山ではない弓月岳の尖った峰の頂に火山を連想し、そこから昇る朝の陽光を象徴化する意図を見出すことができます。これは保立道久氏が指摘する神奈備山(神の鎮座する山)信仰の原型である非火山地帯における疑似火山信仰に通じます。

 また、年に10月22日と2月21日の2日だけ、埋葬墓壙の中心・大柱・日向峠からの日の出が正確に一直線となる福岡県平原1号墓(弥生時代末期)は、意図的に造作された祈年祭と神嘗祭の到来を知る「日の出農事暦計」そのものだったとみることができます。

 福岡県鋤崎古墳(古墳時代前期末)では、冬至の朝の陽光が、横穴式石室の中の組み合わせ式無蓋石棺に安置された遺骸の足下から胸までを照らし、太陽が移動すると暗転するという一連の情景が再現されます。これは偶然の産物ではなく、太陽の光による演出を埋葬に組み入れたと解釈できます。

 静岡県丸ヶ谷戸遺跡は、富士山麓に築かれた最初期の前方後方墳で、墳丘軸線の延長線上に富士山がそびえています。火山灰分析の結果、この古墳が築かれた直後に富士山が北側斜面から噴火し、神奈川県側に火山灰を降らせたことが指摘されています。だとすれば、この古墳の祭りは、富士を鎮めるために人間側の代表者を捧げた可能性が示唆されます。静岡県には富士山に向けた軸線を持つ前方後円(方)墳が他に3基あると判明しており、加えて神奈川県に1基、埼玉県にも3基確認できています。なかでも有名な埼玉稲荷山古墳の前方部は、富士山に向けられ、被葬者を納めた船形木棺の舳先は、前方部に向けられていました。このことから、被葬者の魂が船に乗って富士山に向かうよう、人々が祈念したことが推察できます。これは祖霊祭祀を火山信仰に挿入させた姿にほかなりません。

 このように、多くの事例から弥生・古墳時代の人々が、周囲にそびえる山並みに相応な意味付けをしたことが確認できます。特に富士山や雲仙などの活火山には強い畏怖を感じ、遥拝の対象にしていたと言えます。祖霊祭祀と火山信仰との接続が図られたと推定できることも重要です。祖先を火山に住むか、火山との調停役を担う存在として仕立て、その場所へ送り込むために厳かな祭礼を執り行ったと考えると、立ち上る噴煙に天界への「昇竜」をみた倭人たちの心性が浮かび上がります。

 さらに、太陽の運行による日の出歴の存在、それが古墳や墳丘墓の軸線にも投影されたという事実は、古墳と火山と太陽の三者が互いに深く結びついていたことを物語っています。すなわち人知を超えた強烈なパワー源への畏怖、それに対する祈りや祭祀、儀礼が繰り返されたと言えます。また、太陽の運行から季節の移ろいを知り、農事や祭祀の日取りを決める営みの累積でもありました。これは現在の私たちの心性となんら変わりなく、日本列島の歴史を考える上で、とても重要なことです。

 

●本稿は2019年11月9日開催の「第441回望星講座」の講演内容を編集したものです。[講演者]北條芳隆(東海大学文学部歴史学科考古学専攻教授)