メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

月刊パラリンピック

証言 1964年東京パラリンピック/下 「働く場を」日本の父奔走 創設携わった英の「父」から薫陶

留学中に記念写真に納まる中村医師(右)とグトマン医師=「太陽の家」提供

 1964年東京パラリンピック選手団長の中村裕(ゆたか)医師は、留学先の英国で「パラリンピックの父」と呼ばれたルートビヒ・グトマン医師と出会ったことを契機に、東京大会の実現に人生をささげることになった。ともに偉大な先駆者である故人が、東京パラリンピックを実現させるまでの逸話と、大会で浮き彫りになった課題を、肉親の証言から描く。【高橋秀明】

     初夏に中村医師の故郷、大分県別府市を訪れた。妻広子さん(79)は記憶を一つずつ呼び起こしていく。中村医師の人生は、ユダヤ系のグトマン医師との出会いから大きく動き始めた。

     38年11月9日、ドイツ・ブレスラウ(現ポーランド・ウロツワフ)。後に「水晶の夜」として語り継がれることになるナチスによるユダヤ人襲撃事件がその日の夜、起きた。当時ユダヤ病院で勤務していたグトマン医師は翌年、ドイツを離れて英国に亡命した。

    グトマン医師の娘エバさん

     グトマン医師の娘エバさん(85)は「私の父は有名な神経外科医だったが、ナチスから逃れた人たちに隠れ家を提供したとしてゲシュタポ(秘密国家警察)から取り調べを受けていた。私たち家族は英国に逃げることができたが、祖父も含めて多くの親族が、強制収容所のガス室で死んでいった」と回想する。

     英国のストーク・マンデビル病院で勤務することになったグトマン医師は、第二次世界大戦で脊髄(せきずい)を損傷した兵士たちの社会復帰に革命を起こした。当時の脊髄損傷患者の救命率は2割。ところが主な死因だった尿路感染症や床ずれを防ぐため、寝たきりの患者にスポーツを奨励することで、8割が受傷から半年後には仕事に就くという画期的な成果をもたらした。「失ったものを数えるな。残っているものを最大限に生かせ」。それがグトマン医師の哲学だった。

     グトマン医師の名は海外にも知れ渡った。大分県の国立別府病院で整形外科科長をしていた中村医師は60年、ストーク・マンデビル病院に留学。そこでグトマン医師と運命的な出会いを果たす。広子さんは「当時の日本は高度成長期で、建築現場で脊髄損傷になることが多い時代だったが、静かに寝かせておくことがほとんど。それに本人も家族も人目に触れることを避けがちだった。グトマンさんの病院で、目を開かされたのでしょう」と振り返る。

    中村医師の妻広子さん

     60年はローマで第1回パラリンピックが行われた年でもあった。「父はオリンピックとパラリンピックが毎回、同一都市で行われることが重要だと考えていた」とエバさん。64年東京五輪の後にパラリンピックを開催するため、グトマン医師の意をくんだ中村医師は、帰国後、奔走することになる。広子さんは「別府から寝台列車に夜乗って、東京に朝着いて、仕事してから夜にまた寝台に乗って朝帰ってくる、ということを頻繁にしていた」。当初は関心が低く、国と東京都からの補助金も3000万円だけだったが、寄付金などで賄い、開催にこぎつけた。

     何とか実現した東京パラリンピック。しかし、課題は山積していた。16個の金メダルに沸いた東京五輪に比べ、東京パラリンピックの金メダルは卓球男子ダブルスの1個だけだった。多くが職を持ち日ごろからトレーニングも積んでいた海外の選手と比べ、日本選手の多くは自宅か療養所で患者として暮らしていた。広子さんは「まずはみんなに働く場をという思いがあった」と心の内を代弁する。

     翌65年、地元の別府市に障害者に働く場を提供する「太陽の家」を創設。「No Charity but a Chance(保護より機会を)」という運営方針と中村医師の情熱により、オムロン、ソニー、ホンダといった大企業が支援に乗り出し、各企業と共同出資した会社で、障害者を雇用した。障害者が働く現場を見たホンダの創業者である本田宗一郎氏が、感極まって泣き出してしまうこともあったという。

     そして2020年。パラリンピック選手を支援する企業は飛躍的に増えたが、東京大会後に「20年バブル」がはじけ、支援が打ち切られると心配する声もある。肝炎が原因で、84年に57歳の若さで他界した中村医師が生きていたら、どんな「ポスト20年」の設計図を描いただろうか。

     「あの人は『太陽』が恋人だった。24時間、障害者のことが頭にあった。たどりついたと思っても、まだその先がある。ゴールがない。そんな思いで懸命に生きた人だった」。懐かしそうに思い返す広子さんの言葉を、かみしめたい。


     ■ことば

    パラリンピックの歴史

     1948年、英国でグトマン医師が第二次世界大戦で脊髄(せきずい)を損傷した患者のリハビリテーションのため、ストーク・マンデビル競技大会を始めたのが起源。52年にはオランダが参加して国際大会となった。60年にはローマ五輪に合わせて初めて英国外のローマで開催され、これが後に第1回パラリンピックとされた。アジア・太平洋地域では、中村医師の提唱で75年から2006年まで、現在のアジアパラ競技大会につながるフェスピックが独自に開催された。


     原則、第2火曜日に掲載します。

    関連記事

    毎日新聞のアカウント

    話題の記事

    アクセスランキング

    毎時01分更新

    1. LGBT 「生産性なし」自民・杉田議員の寄稿が炎上
    2. 訃報 松本龍さん67歳=元民主党衆院議員、元復興担当相
    3. 皇室 眞子さま、ブラジルで日系人と交流
    4. バーバリー 売れ残り42億円分を焼却処分
    5. 北大 アイヌ首長遺骨を返還へ 写真残存者で初

    のマークについて

    毎日新聞社は、東京2020大会のオフィシャルパートナーです

    [PR]