メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

ALL FOR 2020

東京へ ともに歩む

毎日新聞

1964年の東京五輪大会でも活躍した伝書バト。通信筒は背中にフィルム用(左)、脚に原稿用(右)を付けていた

オリパラこぼれ話

「かれんな通信士」伝書バトも五輪取材団

毎日新聞東京本社の上空を飛ぶ伝書バト=1953年2月撮影

 伝書バトも五輪取材団の一員だったーー。1964年の第18回東京大会ヨットレース会場。伝書バトは記者が撮影した写真フィルムを背中の通信筒に入れて神奈川・江の島の空を飛び立った。

     通信手段が発達していない昭和半ばまで新聞各社は現場で取材した記者らの原稿や写真を本社まで運ぶ手段として伝書バトを活用していた。長い距離を飛ぶ能力が高く、帰巣本能がある伝書バトは、23年の関東大震災で通信網が寸断された際、日本陸軍が連絡用に使い成果を上げた。

     これを機に毎日新聞の前身の東京日日新聞は翌年、伝書バトを日本陸軍から譲り受けて、当時東京本社があった有楽町の社屋屋上に鳩舎(きゅうしゃ)を作った。訓練をすれば100~150キロの距離を平均時速60キロで飛行することが可能とされたことから、東海道線や東北線など鉄道の沿線ごとに距離を延ばし、スムーズな通信ができるように飼育した。その数は多い時で550羽を超えた。伝書バトに託す原稿は薄い紙数枚に細い字で記入し通信筒に入れて脚に装着、フィルムは背中に取り付けた少し長めの通信筒を使った。

     伝書バトは事件事故や災害取材などでも出動し、活躍した。利根川の堤防が決壊した台風被害(47年)では、泥の海と化した現場から2週間ほど情報を届け続けた。生き物だけに困ったエピソードもあった。帰巣の際、本社上空で仲間たちが運動のために旋回飛行をしていると一緒になって飛び回り、いつまでも下りてこなかったという。

     伝書バトは通信設備が整い始めた55年ごろから次第に出番が減ってくると、社外の運動会などのセレモニーに貸し出されることが中心になった。65年に廃止されるが、有終の美を飾ったのは前年の東京五輪大会だった。神奈川・江の島のヨットレースでは取材団とともに現場に同行。細長い通信筒を背負い、記者らの「頑張って運んで」の願いと共に放たれた。フィルムは東京本社に届き、無事に任務を果たした。

     毎日新聞の65年3月の社内報では、特集ページに伝書バトへの万感の思いを込めた言葉が並んだ。「不屈、かれんな通信士たち」「決死行で大特ダネ」「想い出のこし さようなら」「ハトさん ありがとう」。大活躍の記憶が心に刻まれ、伝書バトによる通信は40年あまりで幕を閉じた。【関根浩一】

    関根浩一

    東京本社オリンピック・パラリンピック室委員。1985年入社。東京本社事業本部、千葉支局、成田支局、情報編成総センターなどを経て、2017年4月からオリンピック・パラリンピック室。サッカー観戦が趣味でこれまで多くの日本代表戦に足を運んでいる。最近はスコッチのソーダ割りを飲みながらボサノバを聴くのが楽しみ。