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東京へ ともに歩む

毎日新聞

五輪に向け二人三脚で進む奥原希望(左)とマネジャーの向井久美子さん=埼玉県嵐山町内で2019年3月14日午後6時20分、小林悠太撮影

Together

バドミントン・奥原 異例のプロ化を実現した影の主役たち

 2020年東京五輪を前に各競技で選手のプロ化が進む中、メダル有望競技のバドミントン界では実業団主体の活動が続いてきた。慣例を破り、日本代表の奥原希望(24)が1月、化学メーカーの「太陽ホールディングス」(東京)とプロ契約を結んだ。そこに行き着くまでには、奥原を支えるマネジャーの熱意があった。【小林悠太】

    太陽ホールディングスを訪れ、社員にあいさつする奥原希望(右)を見つめる尾身修一さん=埼玉県嵐山町内で2019年3月14日午後5時46分、小林悠太撮影

     17年末、東京都内の飲食店。奥原のマネジャーの向井久美子さん(42)は鬼気迫る顔で、20年来、仕事で世話になってきた太陽ホールディングスの佐藤英志社長(49)と向き合っていた。「奥原のプロ化のため、スポンサーになってください」。奥原の芯の強さやストイックな姿勢を説明し、「彼女は必ず東京五輪で金メダルを取る。そのために私が環境を整えたい」と迫った。圧倒された佐藤社長は「『必ず取る』ってすごいね。分かった」と検討を約束した。

     奥原の経歴は輝かしい。16年リオデジャネイロ五輪で日本選手で初めてシングルスのメダル(銅)を獲得すると、17年世界選手権では女子シングルスで初優勝を果たした。156センチと小柄だが世界最高峰に上り詰めたのは練習で誰よりも自らを追い込んできたからだ。ただ代償として故障に悩み、13年春に左膝、14年春に右膝の半月板を手術した。リオ五輪直後には右肩を故障し、3カ月以上、実戦から離れた。

     最初に向井さんが奥原からプロ化の相談を受けたのは、右肩を痛めた16年秋ごろだ。奥原から「プロ化をどう思いますか」と相談された。実業団に所属していれば、年間約20試合ある国際大会の合間に国内の実業団の団体戦にも出場しないといけない。試合数を減らし、コンディションを整えなければ、東京五輪まで体が持たない。奥原の沈痛な表情を見た向井さんは「いいんじゃない。できるよ」と即答した。

     向井さんはマネジメント会社から独立した直後の16年春から奥原のマネジャーになった。それ以来、「看板も歴史もない私を選んでくれた。『強くなるため』と常に一生懸命な彼女の望みは私が全部かなえる」と活動してきた。プロ化へ向け、つてをたどったり、飛び込み訪問したりして企業を回ったが「他の競技の支援をしているから」などと反応は芳しくなかった。最後の手段として、旧交のある佐藤社長に頼み込んだ。必死の思いが伝わった。

     18年の年明け、奥原と会食し、「目力があり、気持ちのいい子」と感じた佐藤社長は社内で検討に入った。詳細を託されたのは、尾身修一管理本部長(49)だった。ただ、同社はスポーツ選手のメインスポンサーを務めた経験はなかった。

     プリント配線板が主力製品で、埼玉県嵐山町に研究所や工場を持つ同社は、埼玉での地域貢献に力を入れていた。埼玉県立大宮東高出身の奥原は会社の「顔」に適任だった。また、同社の海外拠点は中国や韓国、東南アジアなどで、ちょうどバドミントンの盛んな地域と重なっていた。「調べると(うちの会社の所属選手として)ぴったりだった」と尾身さん。取締役会で報告すると、どよめきが起き、反対は一切なかったという。

     奥原がプロ化の相談をしてから、実現まで2年以上かかった。奥原は「向井さんは全力でやってくれている。不安はなかった」と振り返る。向井さんは「選手が輝くためのお膳立てをするのが役割」と語り、尾身さんは「強い思いを応援したい」と支援を約束する。強固な団結が、五輪へ向かう奥原を後押ししている。

    小林悠太

    毎日新聞東京本社運動部。1983年、埼玉県生まれ。2006年入社。甲府支局、西部運動課を経て、16年から東京本社運動部。リオデジャネイロ五輪を現地取材した。バドミントン、陸上、バレーボールなどを担当。学生時代、184センチの身長を生かそうとバレーに熱中。幼稚園児の長男、次男とバレーのパスをするのが目下の夢。