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東京へ ともに歩む

毎日新聞

胸に入ったペースメーカーを示しながら陸上への思いを話す小出義雄さん=千葉県佐倉市内で2016年9月26日午前11時37分、小林悠太撮影

Field of View

あふれる陸上愛 小出義雄さんの金言

いつも笑顔が印象的だった小出義雄さん=仙台市宮城野区で2017年11月26日、小川昌宏撮影

 「かけっこが何よりも好きだから。やめることはつらいけど、今月で80歳。いろいろ弱ってきたからね」――。4月24日、80歳で亡くなった小出義雄さんと最後に話した際の言葉だ。

     亡くなる約3週間前の4月1日、指導現場から離れるという情報について確認するため、本人に電話した。少しかすれた声だったが、人なつっこい口調は変わらなかった。

     2000年シドニー五輪女子マラソンで高橋尚子さんを金メダルへと導いた頃、私は高校生だった。陸上担当になった16年のクイーンズ駅伝前、実業団のユニバーサルエンターテインメントを指導していた小出さんと1対1で初めてインタビューした。「伝説の指導者」を前にし、胸が高鳴ったことを今でも覚えている。

     その際、少し緊張していた私の心をほぐすように、小出さんは雑談から切り出した。「どこの出身?」と聞かれ、「埼玉県朝霞市です」と返すと半世紀以上前の思い出を語り始めた。「朝霞にある自衛隊体育学校の円谷幸吉とは駅伝で同じ区間を走って、どんな練習をやっているのか全部教えてもらったんだよ。だから、Qちゃん(高橋さん)にも、ハードな練習をさせた。指導者が故障を恐れて逃げてはいけない」。ニコニコとしながらも、口調は真剣だった。

     最も印象に残った話は、15年夏に米国で合宿中、胸が苦しくなって心不全の緊急手術をした際のことだ。2泊で退院すると、そのまま選手たちが走るグラウンドへ直行したという。「内出血で左腕が真っ黒だった。みんな、たまげていたよ。陸上を見るのが好きなんだよ。いつ死んだっていい。好きなことを精いっぱいやれればいい」と話していた。

     その後も会うたびに「東京五輪までは死ねないよ」と繰り返していた。陸上人生の集大成が20年東京五輪のはずだった。

     最後の電話取材の際に改めて、そのことを問うと「東京五輪までできないのは寂しいな。でも、いつまでもしがみついていたら、次が育ってこないじゃないですか」。後進の指導者に期待を寄せた。

     小出さんから聞いた「人間にはみんな良いところがある。そこを褒めるのが大事」との指導論が耳に残っている。スポーツ界ではパワハラや体罰などが問題化する状況が続いている。小出さんのような「褒めて伸ばす指導」について見直してはどうだろうか。【小林悠太】

    ハードな練習と「褒めて伸ばす指導」で2000年シドニー五輪女子マラソンでは高橋尚子さん(左)を金メダルへと導いた小出義雄さん=シドニーで2000年9月25日、中村琢磨撮影

    小林悠太

    毎日新聞東京本社運動部。1983年、埼玉県生まれ。2006年入社。甲府支局、西部運動課を経て、16年から東京本社運動部。リオデジャネイロ五輪を現地取材した。バドミントン、陸上、バレーボールなどを担当。学生時代、184センチの身長を生かそうとバレーに熱中。幼稚園児の長男、次男とバレーのパスをするのが目下の夢。