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毎日新聞

パラリンピックの父と呼ばれたルートビヒ・グトマン医師(中央)=1964年11月7日撮影

オリパラこぼれ話

パラリンピックの歴史 起源は負傷兵の治療とリハビリ

 英国・ロンドン郊外の病院で1948年7月、車いすを使う患者男女16人によるアーチェリー大会が行われた。第二次世界大戦が終わり、五輪としては12年ぶりに開かれるロンドン大会開会式の日に合わせて計画された。この大会がパラリンピック大会の起源で、1896年に始まった近代五輪大会からは半世紀ほどたっていた。

    前回のリオデジャネイロ大会開会式でパラリンピックのシンボルマーク「スリー・アギトス」の旗を掲げる難民チーム=2016年9月7日、徳野仁子撮影

     1944年、ロンドンのストーク・マンデビル病院は、戦争で負傷した兵士の治療とリハビリのために脊髄(せきずい)損傷科を開設、初代科長には、後にパラリンピックの父と呼ばれるルートビヒ・グトマン医師が就任した。グトマン医師は車いすを使ったポロやバスケットボールなどのスポーツをリハビリに取り入れた。結果、患者がスポーツに接することで車いす生活に慣れ、社会復帰を早めることができた。大会は以降毎年開かれ、52年にオランダが参加したのを機に国際大会となった。

     60年には英国、オランダなど5カ国で大会委員会を設立。グトマン医師が初代会長に就き、五輪大会開催年に、五輪と同じ開催国で大会を実施する方針を決めた。その年のローマ五輪大会後に開催した大会は初めて英国外で行われ23カ国400人が参加した。76年のトロント大会からは車いすの選手以外に視覚障害者、事故や病気で四肢の一部を切断した選手が出場するようになり、80年に脳性まひの選手が参加。96年に知的障害者の選手も加わったもののその後不正が発覚し、2012年に復活してから現在のパラリンピック大会になっていった。

     パラリンピックは1988年のソウル大会で大きな節目を迎えた。同大会には61カ国・地域から約3050人の選手が集い、その年の五輪大会と同じ施設を利用する初の連動大会となった。一方、実動組織として国際統一団体発足の機運が高まり、89年に国際パラリンピック委員会(IPC)が設立され、第1回パラリンピック大会を60年のローマ大会とすることなどを決めた。また、2001年にIPCと国際オリンピック委員会(IOC)は、五輪大会開催地が終了後引き継いでパラリンピック大会を開催するという内容の合意文書に調印。08年の北京大会からは組織委員会が五輪、パラリンピック両大会を運営することになった。さらに、世界から注目を集め、前回のリオデジャネイロ大会では159カ国・地域と難民選手団から選手約4300人が参加するまでになった。

     リハビリが起源で誕生したパラリンピック大会だが、組織の拡充や競技人口の増加などで競技スポーツとしてさらなる発展を遂げている。

     パラリンピックという言葉は、1964年の東京大会で愛称として初めて使われた。当初は英語で下半身まひを指すパラプレジアのオリンピックを意味していた。85年に正式名称に決定した際、英語の「パラレル」と「オリンピック」から「もう一つの五輪」という思いが込められた。

     現在のシンボルマークは3代目で「スリー・アギトス」と呼ばれる。2004年のアテネ大会閉会式から使用された。アギトはラテン語で「私は動く」という意味。赤、青、緑色の三日月のような曲線が中心を囲むデザインは、世界中からパラアスリートが集う意義を表している。【関根浩一】

    関根浩一

    東京本社オリンピック・パラリンピック室委員。1985年入社。東京本社事業本部、千葉支局、成田支局、情報編成総センターなどを経て、2017年4月からオリンピック・パラリンピック室。サッカー観戦が趣味でこれまで多くの日本代表戦に足を運んでいる。最近はスコッチのソーダ割りを飲みながらボサノバを聴くのが楽しみ。