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毎日新聞

第2回国際女子競技大会に参加するため列車に乗り込む人見絹枝(左から2人目)=大阪駅で1926年7月8日撮影

オリパラこぼれ話

人見絹枝の生涯㊤ おてんば娘が日本人女性初のメダリスト

 陸上女子800メートルの残り1周で驚異的なスピードを見せて、前を走る選手を懸命に追い上げた。徐々に順位を上げたが惜しくも一歩及ばず2位でゴールすると、倒れ込んで気を失った。1928年の第9回アムステルダム五輪大会で人見絹枝が銀メダルを取り、日本人女性初のメダリストになった瞬間だ。現在放映中で五輪を題材にしたNHK大河ドラマ「いだてん」にも登場した。

     人見は岡山県御津郡福浜村(現岡山市)の農家の次女として07年元日に生まれる。少女時代の人見は、田園が一面に広がるあぜ道を駆け回り、近くの小川では男の子と一緒に魚を生け捕りにし、木登りにも盛んに挑むおてんばぶりだったと、「朝やけのランナー」(PHP研究所)など、いくつかの人見関連書籍で紹介されている。

     「これからの女性は学問が必要」という父親の勧めで小学校卒業後は競争率4倍で難関の岡山県立高等女学校へ進学した。

     女学校時代の人見の人柄をうかがえるエピソードがある。自伝「人見絹枝―炎のスプリンター」(日本図書センター)などによると、4年制の女学校ではテニスに熱中した。1年生の時に応援に行った大会で先輩が負けてしまう。敗れて泣く先輩を見て自分も涙を流したという。その心中を思いやり「できることなら私が雪辱を果たしたい」と心の中で叫んだそうだ。その後、一層練習に励み、県大会で優勝するまでになった。仲間思いのやさしさ、負けん気の強さと努力を惜しまない姿が想像できる。

     4年生の時、陸上競技の県大会に駆り出されたことがきっかけで陸上選手としての才能が輝き始める。走り幅跳びに出場すると4メートル67の女子日本新記録で優勝した。

     女学校卒業後は、体育教師を育成する1年制の東京の二階堂体操塾(日本女子体育大学の前身)に入塾した。人見が17歳の時だった。この年の秋、岡山県の陸上競技大会に出場し、三段跳びで10メートル33の世界記録を出した。活躍は大阪毎日新聞(毎日新聞の前身)に大きく報道され、国内に名前を知らしめた。そんな人見に「日本の女子陸上界を背負って立つ存在」と白羽の矢を立てたのは、大阪毎日新聞社運動課長の木下東作氏だった。社史によると、一般大衆へのスポーツ普及、運動取材の充実を図ろうとしていた新聞社にとって、人見の獲得は悲願だった。運動生理学の医学博士でもあった木下氏は、学生時代は陸上の長距離の選手で女子のスポーツ普及を願っていた。自ら会長となって26年に日本女子スポーツ連盟を設立。人見の入社に重要な役目を担った。

     人見は同年春に19歳で入社した。木下氏は再三、岡山の実家へ出向き「日本のスポーツ界発展に必要な人」と反対する父親を説得。人見には記者をしながら「世界の舞台で競技をしてみないか」と訴えた。社報には「従来以上の成績と同時に少しでも世の女子体育事業に尽くしてみようと願っております」と抱負を語っている。

     人見は運動課で原稿取りの手伝いをしながら、練習の日々を続けた。その年の8月にスウェーデンのイエーテボリで行われる第2回国際女子競技会への派遣が決まった。日本からは初参加で選手は人見だけだった。「どれだけの強豪が出場するのか、未知の舞台に不安もある」と考えた(「社史」より)が、覚悟を決めて出場したという。

     開会式は国旗を手にたった一人の入場行進だった。前日に送った大会展望記事の末尾に「大きな責任を感じ最善を尽くして祖国の女子のために飛躍を期しています」とつづり、自身を鼓舞するかのようだった。競技会では複数競技を掛け持ちする孤軍奮闘で3日間戦い抜いた。走り幅跳びで5メートル50の世界新記録を出して優勝する。また、立ち幅跳びでも優勝したほか、100ヤード(91.44メートル)が3位、円盤投げは2位だった。結果、個人別最高得点で名誉賞を受けた。帰国すると、人見は時の人となり、地元の岡山をはじめ各地で歓迎された。

     2年後のアムステルダム五輪大会では日本選手団初の女性で紅一点だった。自伝では、100メートルが得意種目で金メダルを狙っていた。予選は軽く通過したが次の準決勝でまさかの4位で決勝を逃した。ショックが大きかった。ぼうぜんとし宿舎に戻り大泣きした。「このままでは帰れない」。未経験の800メートル出場を決意し結果を残した。人見の人生が大きく動き出した。【関根浩一】

    第9回アムステルダム五輪大会の女子800メートル決勝でドイツのラトケ選手に続いて2位でゴールする人見絹枝(左から2人目)=1928年8月2日撮影

    関根浩一

    東京本社オリンピック・パラリンピック室委員。1985年入社。東京本社事業本部、千葉支局、成田支局、情報編成総センターなどを経て、2017年4月からオリンピック・パラリンピック室。サッカー観戦が趣味でこれまで多くの日本代表戦に足を運んでいる。最近はスコッチのソーダ割りを飲みながらボサノバを聴くのが楽しみ。