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元祖イケメンスイマー「かっちゃん」高石勝男の素顔 秘蔵写真でたどる波乱万丈の人生

1926(大正15)年の豪州遠征に参加した高石勝男(奥山聡子さん提供)

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 NHKの大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺(ばなし)~」で斎藤工が演じる「かっちゃん」こと高石勝男。若い女性の熱い視線を集め、街を歩けば誰もが振り返る人気者だったという。ファッションリーダーでもあったイケメンスイマーだが、その素顔とは――。高石の家族や関係者から提供された300枚超の秘蔵写真を繰りながら、波乱万丈の水泳人生をたどった。【砂間裕之】

暗い時代のモテ男

 かっちゃんが選手として活躍したのは、大正から昭和初期にかけて。関東大震災や世界恐慌、満州事変など災害や戦争が相次ぎ、暗雲たれこめる時代だった。そんな時代に希望の明かりとなったのが、かっちゃんである。

 パリ、アムステルダム、ロサンゼルスの三つの五輪に連続出場し、アムステルダムではメダル二つを獲得。一躍スターの座に上り詰めた。アムステルダム五輪代表の米山弘は、後にこんなエピソードをつづった。

東京五輪を控え、日本水泳連盟の会長に就任した高石勝男=1961年2月、坂口喜三撮影

 「ハワイ遠征から帰った高石さんたちはオカッパ頭にグレーのコールテン製ラッパズボンというニュースタイルで、これが当時の学生界に大いに流行し猫も杓子(しゃくし)もそのスタイルを真似(まね)したものです」(高石勝男氏追悼集「高石さんを憶う」より)

 当然女性たちにもモテモテだった。証言するのは、「前畑ガンバレ、前畑ガンバレ」の実況放送で知られるベルリン五輪(1936年)女子200メートル平泳ぎの金メダリスト、前畑秀子である。追悼集で「勝男先生の中学校、大学時代は私共女性の憧れの的であった。茨木中学校時代は丸坊ズ頭の美少年。早稲田大学に進学され、飛魚の勝ちゃんとして誰知らぬ人はなかった」とベタぼめした。

 イケメンかっちゃんは、遊びの達人でもあった。休みの日や練習の合間をぬって、銀座に繰り出し、銀ブラを楽しむ。酒を飲まないのに友だちに付き合ってダンスや歌に興じた。撞球(どうきゅう、ビリヤードのこと)もたしなみ、どんな遊びでもスマートにこなす「モボ」(モダンボーイ)だったようだ。「いだてん」では、マージャンを打つシーンがあったが、かっちゃんはハワイ仕込み。パイはすべて英語で呼び、教え込まれた後輩は覚えられず悲鳴をあげた。

豪傑とターザン

1928(昭和3)年に来日した際、撮影されたとみられるスウェーデンのアルネ・ボルグ(奥山聡子さん提供)

 ところがさすがのモテ男も、スウェーデンの「豪傑」の奔放さにはかなわなかった。かっちゃんのライバルの一人、アルネ・ボルグである。この男、メガネをかけたインテリ風のやさ男だが、葉巻をくわえてプールに現れ、ウオッカをひっかけてから泳ぐつわものだったらしい。

 アムステルダム五輪直後の1928(昭和3)年秋、日本での水泳大会に招待されたが、婚約者同行でないと行かないと駄々をこね、結局2人で来日した。東京のスウェーデン公使館で結婚式を挙げることになり、日本選手代表で出席したかっちゃんは、花嫁にお祝いのキスをする役目を仰せつかり、後日「こんな困ったことはない」とこぼしていたという。ちなみにボルグの妻は、大西洋単独無着陸飛行に成功したリンドバーグ大佐のめい。豪傑ゆえのお相手だ。

アムステルダム五輪後、早稲田大の高石記念プールを訪れたワイズミューラー(左)と高石勝男のツーショット(1928年、高石勝さん提供)

 忘れられないもう一人のライバルが、後に映画「ターザン」の主役となる米国のジョニー・ワイズミューラーだ。パリ、アムステルダムの2大会で計5個の金メダルを獲得し、いつもかっちゃんの前に立ちはだかった。野性味あふれる豪快な泳ぎは、密林の王者ターザンのイメージにピッタリで、無頼派の作家、坂口安吾も度肝を抜かれた。ボルグとともに来日した際、1万人の観客が見つめる招待試合の合間。1人でプールに潜ったワイズミューラーがプール中央で浮かび上がり、突然水を噴き上げた。安吾は後にその光景を随筆で発表。「ガガア!という河馬のマネ(ではないかと思うが)を再三やって見物衆をよろこばせた。当時からターザンに誰よりも適任の素質を示していた」(1950年10月、文芸春秋「安吾巷談」より)と回想した。

戦力外通告

 さて、25歳で迎えたロサンゼルス五輪では「ノンプレーイング・キャプテン」を命じられ、主将なのに競技に出られなかった。「いだてん」では、おしゃべりで破天荒な主人公、田畑政治(阿部サダヲ)に「戦力外通告」を受け、心揺れる場面も描かれた。

 当時、かっちゃんが記した帰国報告が残っている。「この度は陸戦隊の一員だっただけにゆっくり試合を見る機会を得ました」と前向きにレース分析にあたったことを強調。一方で「競技そのものについては私が書くより事実その種目を泳いだ選手が書いた方がより以上面白いだろうし、私はタッチしないことにきめたのです」と冷めた言葉で締めた。

「いだてん」で高石勝男を演じた斎藤工さん=和田大典撮影

 それでも仲間の信頼は絶大で、チームでは若い選手たちをうまくまとめたのだろう。アムステルダム、ロサンゼルスの平泳ぎで2大会連続の金メダルに輝いた鶴田義行は「いつも柔和で思いやりがあって、他の選手を引っ張って泳いでいました。みんなは、豊かな人間味にいつも『かっちゃん、かっちゃん』とついて行った」と振り返った。6種目中5種目を制し、100メートル背泳ぎでは表彰台を独占するなど日本が圧勝した最大の要因は、かっちゃんの希代のリーダーシップだったのかもしれない。

地元五輪でまさかの惨敗

 かっちゃんの晩年は残念ながらツキがなかった。田畑と対立し、その確執を乗り越えて東京五輪3年前の1961(昭和36)年、日本水泳連盟会長に就く。ところが期待された地元五輪で、競泳陣は男子800メートルリレーの銅メダル一つに終わり、惨敗の責任を取って会長を退く。その1年半後の66年4月、59歳の若さで亡くなった。

 長男の勝さん(昨年1月死去)は「会長を引き受けたとき、実は胃潰瘍を患っており、おかゆしか食べられなかったんです。家族は心配していましたが、おやじは水泳のことで頭がいっぱいだったのでしょう。闘病中もずっと水泳の将来を考えていたと思います」と回想した。

 かっちゃんの考える王国復活の道筋はどんなものだったのか。五輪直後のインタビューでは「再建のために学童水泳に力を入れるべきだ」と力説。中学生以下の全国大会への出場制限など、当時のシステムは育成の連続性や裾野を広げる視点に欠けていたといい、抜本的な改善を求めた。

 かっちゃんは終戦後、地元の兵庫県芦屋市で「芦屋水練学校」を立ち上げ、「国民皆泳」を掲げて子供たちの水泳指導に当たった。その経験がベースになり、学童期の鍛錬から五輪選手を育てあげるシステムを構想したのだろう。今のスイミングスクールは、その延長線上にある。

 王国復活がかなわなかった地元五輪から56年。スイミングスクールで鍛えた頼もしい後輩たちが、「東京2020」でかっちゃんの夢に挑む。

高石勝男

 1906(明治39)年、大阪市生まれ。淀川と神崎川にはさまれた中州に生家があり、小さいころ親に怒られると川に泳いで逃げたという。日本の学校で初めてプールを完成させた旧制茨木中(大阪府茨木市)に進学し、1920(大正9)年には試合でクロールを取り入れた。パリ五輪(1924年)では100メートルと1500メートルの自由形2種目で5位入賞。早稲田大入学後のアムステルダム五輪(1928年)では100メートル自由形で銅メダル、800メートルリレーで銀メダルを獲得した。終戦後、スポーツ振興のためスポーツ専門紙を構想。スポーツニッポン新聞社の創設にも関わった。1961(昭和36)年1月に日本水泳連盟会長に就任。東京五輪では水泳選手団の総監督を務めた。1966(昭和41)年4月、59歳で死去した。

     ◇

 今回紹介した高石勝男に関連する写真は、①高石の長男勝さんが保管していた写真②高石と親交のあった奥山紀捷(のりかつ)さんの長女聰子(としこ)さん(83)=兵庫県川西市=の写真③本社が撮影し保管している写真――で構成した。当時、プリントにサインをして知人に配ることが広く行われていたとみられ、同じ写真が複数存在していた。

 勝さんの写真は2冊のアルバムに張られていた。2019年8月に東京都内の自宅で取材し、写真の提供を受けた。勝さんは18年1月に亡くなった。また奥山さんからは14年1月にアルバム1冊などの提供を受けた。

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