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64年東京五輪で銅 男子バレー躍進の契機に 元日本代表・菅原貞敬さん(80)

1964年東京五輪で優勝候補のソ連を破り、喜ぶバレーボール男子日本代表

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 1964年東京五輪で男女通じて球技初の金メダルに輝いた女子バレーボール日本代表。日本中を熱狂させた「東洋の魔女」の活躍の陰に隠れていたが、男子も険しい道のりを乗り越え銅メダルを手にした。メンバーの一人で、Vリーグ・日立リヴァーレのシニアアドバイザーを務める菅原貞敬さん(80)は東京五輪の経験が、72年ミュンヘン五輪で金メダルを獲得するなど、その後の男子チームの躍進につながったと信じている。【仁瓶和弥】

 <菅原さんは中学校で野球部に入部したが、部員不足のため活動停止となってしまった>

 担任の先生にも勧められ、バレーボール部に転部しました。姉がバレーをやっていたことも影響しました。県内では強豪だった能代高校に進学。レギュラーになりたい思いも強く、自分なりに工夫して練習しました。足腰を鍛えるため、つま先立ちで歩いて通学したり、自宅庭にある松の木の枝にジャンプしたりする練習も日課にしていました。

 <能代高は56年の全国高校選手権(インターハイの前身)で初優勝。東北の高校が全国制覇するのは史上初の快挙だった。エースアタッカーとして活躍した菅原さんは卒業後、実業団・東レ九鱗会を持つ東洋レーヨン(現東レ)に入社した>

 入社2年目の時、全日本男子の合宿が東洋レーヨン滋賀工場(大津市)の体育館であり、私はボール拾いなど練習の手伝いをしました。漫然とボール拾いをしてもつまらないので、転がってきたボールを壁に当てないようにしようと思いました。練習する全日本のレシーバーと同じように、体を左右に俊敏に動かしボールを拾いました。それを1週間やりました。合宿最終日、長崎重芳(しげよし)監督(当時)から「真面目にボールを拾ってくれたな」とほめられ、練習にも参加させてもらいました。後に長崎監督が「東レに元気の良い選手がいるから、選んではどうか」と提案し、全日本代表に初選出されました。

 <日本代表は60年、ブラジルで開かれた世界選手権に出場。菅原さんもチーム最年少の21歳で遠征に参加した>

 その頃はソ連(当時)をはじめ、ルーマニア、チェコスロバキア(同)、ハンガリーといった東欧の共産圏の国々が圧倒的に強かった。大柄な選手が滞空時間の長いジャンプをしてダイナミックにボールを打つ。まるで、曲芸やサーカスを見ているようでした。日本は出場14カ国中8位になりましたが、東欧圏の一部の国は出場していませんでした。オリンピックに共産圏の国々がこぞって出てきたら、かなわないなと思いました。

 62年、モスクワで開かれる世界選手権に向けた強化の一環で、ポーランドを日本に招いて各地で試合をやりました。ポーランドは共産圏でも6、7番手の国でしたが、まったく歯が立たず8試合やって一度も勝てませんでした。本番の予選リーグはそのポーランドのほか、東ドイツ(同)、アルバニアと同じ組になりました。

 初戦のアルバニアには勝ちましたが、次はポーランドと互角の戦いをした東ドイツが相手。勝つにはサーブで崩すしかないと思い、私はいつもと違う打ち方を試みました。エンドラインの後方約10~11メートルから、サーブを打ったのです。会場からはブーイングが起きましたが、それが当たりました。ボールは無回転で変化しました。相手選手はボールが落ちてくるのを待ち切れず、ミスをしました。このサーブはボールがひらひら落ちてくる木の葉のように見えることから、「木の葉落とし」と名付けられました。

 <東ドイツ、ポーランドを連破した日本は世界選手権で5位に躍進した。「木の葉落とし」という武器を手にサーブの名手となった菅原さんは念願の東京五輪代表入りを果たした。コートで人一倍大きな声を出してチームを盛り上げるムードメーカーでもあった>

 初戦の韓国には勝ちましたが、続くハンガリー、チェコに連敗。メダルを取るにはもう1敗も許されない、崖っ縁に追い込まれました。ハンガリーに勝って勢いをつけてチェコ戦に臨み、「チェコに負けても2勝1敗」という計算でした。ところが、ハンガリー戦は、選手がガチガチに硬くなり、声は出ないし、足も動かない。オリンピックの「魔物」でしょうね。自国開催の重圧も大きかったです。

 ブルガリア、米国を降し、3勝2敗で優勝候補のソ連戦を迎えました。恥ずかしい試合だけはしたくないと思いましたが、コートに立つと足が震えるんです。「バカヤロー、お前は世界で一番サーブを練習してきたんだろう」と自分に言い聞かせました。第1セット、7-14と大きくリードされてから日本は一度追いつきました。結局、このセットは落としましたが、第1セットに競ったことでチームのリズムが良くなり、スタンドの観客も一体となって声援を送ってくれました。次のセットで点差が詰まってくると、「菅原を(ピンチサーバーとして)出せ」という声援が聞こえてきて、ものすごい力になりました。日本は3-1で逆転勝ちしましたが、ソ連に勝てるなんて夢にも思いませんでした。まさに奇跡でした。

 <ソ連を破った勢いに乗り、ブラジル、ルーマニアにも連勝。8試合を終え6勝2敗となり、最終のオランダ戦で1セットを取れば3位以内が確定する状況に。オランダを3-1で降し、日本は6連勝で銅メダルを獲得した>

1964年東京五輪で獲得した銅メダルを手にするバレー男子元日本代表の菅原貞敬さん=茨城県ひたちなか市で2019年6月22日午後3時、仁瓶和弥撮影

 うれしかったというより、「あー、終わった」という安堵(あんど)感ですね。表彰式の後、観客席から「メダル見せて!」という声が聞こえました。試合中、応援してくれた人たちに助けられたので、「メダルは自分だけのものじゃない」と思って、私はそのメダルを観客席に投げ入れたんです。後になって、大会役員の方が控室に持ってきてくれました。

 幼いころ、近所に住む人に赤紙(召集令状)が来て、戦地に赴きましたが、多くの人がお骨になって帰ってきました。子どもながらに「世界は皆、敵なんだ」という思いがあり、東京五輪の開会式で海外の選手を見た時は「命懸けでも倒すぞ」と思いました。でも、閉会式では選手はみんなが手をつなぎ、肩を組んで入場しました。「世界は一つなんだ。仲良くしなければいけない」という思いを強くしました。

 <男子バレーが銅メダルを獲得したのと同じ日、女子はソ連との全勝対決を制し金メダルを獲得。平均視聴率は66・8%(関東地区)という驚異的な数字をマークした>

 メダルを取った後、バレーボール協会が主催した祝賀会に男子チームは呼ばれませんでした。「なんで呼んでくれないんだ」と怒る選手もいましたが、私はあれで良かったと思うんです。祝賀会の会場に我々がいたら、女子選手の後ろに隠れるしかないでしょう。その女子の選手たちも男子と一緒ではなかなか喜べなかったでしょう。だから、出なくて良かったと思います。

 日本社会には昔から男尊女卑の風潮がありました。女性の地位向上につなげるためにも、女子バレーが金メダルを取ったのは良かったと思います。

 <男子バレーは12年ロンドン大会、16年リオデジャネイロ大会と五輪出場を逃すなど、世界の壁を破れないでいる>

 男子バレーはメキシコ五輪で銀、そしてミュンヘン五輪で金メダルを取って意地を見せてくれました。銅メダルを獲得した東京五輪がその土台をつくったという自負はあります。後輩たちには日本バレーをもう一度、世界にアピールしてほしいですね。そのことを切に願っています。来年は64年大会の時のように、スタンドが一体となって応援する姿をもう一度見たいですね。

 選手が自分に対してどこまで厳しくできるか。日本はスパイク力がないのでサーブを絶対ミスしてはいけないと思います。サーブレシーブは世界で一番にならないと勝てないでしょう。そういう強い覚悟でオリンピックに向かってほしい。それから世界のどこでもやっていない技を一つでいいから開発してほしい。1人でなく、2人、3人で新しい技を決めていく。そういうことをやっていけば、世界に負けることはないと思います。

すがわら・さだとし

 1939年生まれ、秋田県能代市出身。能代高から57年、東洋レーヨン(現東レ)に入社。64年東京五輪の日本代表として銅メダルを獲得した。東レ九鱗会、全日本ジュニアなどの監督を歴任。ケニア女子の監督として、2000年シドニー大会ではアフリカ勢初の五輪出場。Vリーグ・日立佐和リヴァーレ(現日立リヴァーレ)の監督などを経て、現在はシニアアドバイザー。

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