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伝えたい東京へ

男子サッカー、メキシコ銅につながった東京五輪 元日本代表・片山洋さん(79)

1964年東京五輪の初戦で強豪アルゼンチンに逆転勝ちし、抱き合って喜ぶ日本代表の選手=東京・世田谷区の駒沢陸上競技場で1964年10月14日撮影

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 サッカー日本代表は1968年メキシコ五輪で銅メダルに輝いた。男子サッカーが五輪で唯一メダルをつかんだ大会として語り継がれるが、ベスト8に進出した64年東京五輪の活躍はあまり知られていない。東京、メキシコ両大会に出場した元日本代表の片山洋さん(79)がメキシコの快進撃への第一歩を踏み出した東京五輪までの歩みを振り返り、来年の大会で半世紀ぶりのメダル獲得に挑む代表にエールを送った。【仁瓶和弥】

 <戦後間もなく、片山さんは東京第一師範(現東京学芸大)付属世田谷小学校に入学した>

 サッカーが「校技」でした。校内でクラス対抗の試合があり、ルールも分からずにボールを追い掛けたのが私のサッカー人生の始まりです。当時、自宅周辺は一面の焼け野原で、家から駅舎が見えました。棒きれとボロ布をひもでくくった手作りボールで野球もよくやりました。

 <中学入学後、ある人物との出会いが片山さんの人生を決定付ける>

 サッカー部に入りましたが、東京学芸大サッカー部のキャプテンだった会田勝先生が教育実習のため、私の学校に教えに来ました。いいかげんなサッカーをしていた私たちに、ボールのけり方、止め方などの基本からルールやその面白さを教えてくれました。「グラウンドは君たちの表現の場だ」「個性を生かして思い切りやればいい」など本当に良いことを教えていただいた。会田先生に出会ったことがすべてです。

 <サッカー漬けの日々を送ることになる片山さんだが、慶応高では全国大会とは無縁だった。慶応大2年の時、「慶応BRB」(慶大のOBを含むチーム)のメンバーとして、天皇杯全日本選手権に出場。右サイドバックとして準優勝に貢献し道が開ける>

 同級生には高校時代に全国大会で活躍したあこがれの選手も多くいました。最初は相手にされず悔しかったですが、石にかじりついて練習しました。体が小さいですから、スライディングタックルをむちゃくちゃ練習しましたね。大きな相手にもひるまずにタックルできたんです。タックルという持ち味があったからこそ、DFをやれたと思います。

 <60年ローマ五輪出場を逃した日本は東京五輪に向けた強化に乗り出す。同年の欧州遠征メンバーに選出された片山さんは遠征先の一つである西ドイツ(当時)で、東京五輪で日本のコーチとなリ、「日本サッカーの父」と呼ばれたデットマール・クラマーさん(故人)と出会う>

 全国から選抜された100人ぐらいの代表候補が参加した合宿の最終日。遠征メンバー20人のうち、20番目に私の名前が呼ばれたんです。大学2年、20歳の時です。(日本代表の)ユニホームを着られるのは夢のような気分でした。西ドイツをはじめ、イングランドや東欧、ソ連(同)……。日本のスポーツ団体がヨーロッパを転戦する機会はほとんどなかった時代ですから、非常に珍しがられました。

 クラマーさんは西ドイツの「スポーツシューレ」(総合スポーツトレーニング研修施設)にいたんですが、その施設には標語がありました。「ものを見るのは目ではない。音を聞くのは耳ではない。ものを見るのも音を聞くのもすべて心だ」というような。当時、日本サッカー協会の会長だった野津(謙)先生はその言葉をいたく気に入りましてね。主任コーチとしてクラマーさんに来ていただいて、東京五輪に向けた強化のために協力してほしいというお願いをしたんです。ヨーロッパ遠征と外国人コーチ招へいは代表強化に向けて大英断でした。

 <片山さんは61年のマラヤ(マレーシア)戦で国際Aマッチ(フル代表同士の公式戦)デビュー。しかし、ミスで2失点に絡むなどほろ苦い経験となった>

 当時、DFは「守ってさえいればいい」という考えが大勢だったんですが、私はそれは嫌で、ガンガン攻めに行くスタイルを目指していました。クラマーさんからは「日本はまだ後発のチームだから、『ディフェンス・ファースト』だ」と言われました。

 この試合ではハンドでPKを取られたり、自分がファウルで与えたフリーキックを決められたりして負けました。クラマーさんからミーティングで「お前みたいなヤツはグラウンドに立つ資格はない。もう二度とグラウンドで見ることはないだろう」と怒られました。デビュー戦は怒られた記憶しかないですね。

メキシコ五輪以来のメダル獲得に期待を寄せるサッカー元日本代表の片山洋さん=東京都目黒区で7月30日午後3時、仁瓶和弥撮影

 <代表から一時外れた片山さんは落胆し、サッカーをやめようと考えたこともあった。その年の冬、千葉市の合宿所で悲壮な覚悟で自主トレーニングに励んだ>

 やめる決心をするか、もう一度立ち直れるか。そんな覚悟で誰もいないグラウンドで朝から一人黙々とランニングしたり、ボールをけったりしました。合宿所にはベッドがあるだけで、夜は寒風が吹き込んでくる厳しい環境でした。3日目ぐらいだったでしょうか。グラウンドのベンチに腰をかけている人が見えました。会田先生でした。代表から私の名前が消え、「どうしたのか」と見に来てくれたのです。先生の姿を見て「もう一度、挑戦しよう」と奮い立ちました。勇気付けていただいた本当の恩師です。

 代表に呼び戻されたのは翌年の夏。クラマーさんは私の両肩をつかみ「オレはずっとお前のことを見ていた。本当の友人だから、お前のことを見続けていたんだ」と言うんですね。代表に戻れたうれしさもありますが、「このおじさんの言うことは聞かないとまずいな」と思いました。

 <64年10月の東京五輪。日本はアルゼンチン、ガーナ、イタリアと同じ組に入った。駒沢陸上競技場で行われた初戦の相手は強豪アルゼンチンだった>

 クラマーさんは「アルゼンチンに勝てたら、この大会は50%成功だ」と言っていました。「(エースストライカーの)釜本(邦茂さん)は『ノー・ディフェンス』でトップに残れ。あとの10人はしっかり守り、ボールを奪ったら速攻だ」と指示されました。試合をやってみて、ヨーロッパのチームの方が強いと思いましたね。アルゼンチンはうまいんですけど、ボールを取られても追い掛けてこないなど、まだ甘いところがありました。前半先制されましたが、ハーフタイムでこの相手なら「いける」と思いました。

 <日本は終了間際の連続ゴールなど3-2で逆転勝利を収めた>

 勝った後、クラマーさんはロッカーに集まった選手に「ちょっと待ってくれ」と言って、アルゼンチンのベンチにあいさつに行きました。「敗者というものはいつも(周りに)誰もいなくなってしまうものなのだ」みたいなことを言っていました。僕らへの教育の意味もあったのでしょう。「素晴らしいゲームだった」という言葉はありましたが、冷静でしたね。

 彼は「喜びすぎるな」とよく言っていました。「試合終了のホイッスル(笛)は次の試合開始のキックオフへの笛だ」とも。休む暇がないですね(笑い)。

 <ガーナには2-3で敗れたが、イタリアがアマチュア規定違反で棄権し、日本は3チーム中2位で決勝トーナメントに進出した。しかし、準々決勝でチェコスロバキア(当時)に0-4の大敗を喫した>

 アルゼンチン戦で精も根も尽き果ててしまった感じです。大会全体を乗り切るスタミナが残っていませんでした。でも、メキシコ五輪のためには良い経験をしました。東京五輪でアルゼンチンに負けて、予選リーグで敗退していたら、メキシコ五輪の結果はなかったでしょう。

 準々決勝で負けた後、(大阪で行われた順位決定予備戦で)ユーゴスラビア(同)と対戦しました。相手チームには後に日本代表監督になるオシムさんがいたんですが、長身なのに速くてうまいんです。ボールを奪われたら、全力で戻ってくる。労を惜しまず、勤勉なんです。後に監督として言っていたことを現役時代から実践していたんです。

 <メキシコ五輪以来、日本はメダルから遠ざかっている>

 われわれが現役の頃は、「ベルリン、ベルリン」(※注)と言われました。今の選手もメダルから50年以上遠ざかっていると、いつまでも言われるのはいやでしょう。早くメダルを取って「メキシコの呪縛」から解き放たれてほしい。

 ホームゲームは圧倒的に有利です。慣れ親しんだグラウンドで、食事なども含めて最高のコンディションで大会に臨めます。われわれがアルゼンチン戦後スタミナ切れを起こしたようなことはないでしょう。今の選手がうらやましいですね。50年遅く生まれれば良かったです(笑い)。

 (※注)1936年ベルリン五輪に出場したサッカー日本代表は初戦で優勝候補のスウェーデンに3-2で逆転勝ちした。サッカー競技では五輪初参加だった日本の勝利は驚きを持って受け止められ、「ベルリンの奇跡」と呼ばれた。

かたやま・ひろし

 1940年生まれ、東京・目黒区出身。慶応義塾大から63年、新三菱重工(64年から三菱重工)に入社。右サイドバックとして64年東京、68年メキシコ両五輪の全試合にフル出場した。JSL(日本サッカーリーグ)では107試合に出場。71年度天皇杯全日本選手権で優勝するなど三菱重工の黄金時代を担った。2007年、第4回日本サッカー殿堂入り。

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