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毎日新聞

ベルリン五輪開幕前、ベルリンのオリンピックスタジアムで練習する(左から)西田修平、安達清、大江季雄の3選手=1936年7月、高田正雄本社特派員撮影

オリパラこぼれ話

激闘のベルリン五輪棒高跳び 2人が生んだ「友情のメダル」

 1936年8月5日。ベルリン五輪の陸上競技・男子棒高跳びの決勝は、5時間半にも及ぶ激闘となった。周囲は夕闇に包まれ、オリンピックスタジアムでは照明灯がつけられた。この日は朝から天候が悪く、8月にもかかわらず日本の晩秋を思わせるほど、空気は冷え込んでいた。

    ベルリン五輪男子棒高跳びで跳躍する西田修平選手(左)と大江季雄選手=いずれも1936年8月5日、高田正雄本社特派員撮影

     決勝に進んだのは日本の西田修平、大江季雄(すえお)、安達清の3選手ら16人。やがて優勝争いは、4メートル25を跳んだ西田、大江両選手と米国2選手の4人に絞られる。この時点で、すでに競技開始から4時間が経過していた。バーの高さは4メートル35となり、2回目で米国のメドウス選手がただ一人クリアして、金メダル獲得を決める。その後は2~4位の順位決定戦となり、残る3選手が再び4メートル35に挑むがクリアする者はおらず、4メートル25に下げるもまた全員が失敗。ようやく4メートル15で西田、大江両選手が成功した。しかし2人の疲労は、すでにピークに達していた。

     「日本体育協会・日本オリンピック委員会100年史」によれば、ドイツ人審判員から「あまりに選手の体力の消耗が激しい。順位は日本チームで話しあって決めてはどうか」と提案があり、両選手もこれを了承。4歳年長で、1回目に4メートル25を先に成功していた西田選手が2位、大江選手が3位と届け出て、これが公式順位として認められた。

    西田修平選手と大江季雄選手が作った「友情のメダル」=1936年撮影

     競技翌日の表彰式で、西田選手は大江選手を2位の表彰台に立たせた。帰国後、2人は銀、銅メダルを半分に割り、つなぎ合わせた二つの特製「銀銅メダル」を作って、互いに持ち合った。このエピソードは「友情のメダル」として、小学生向けの教科書などでも紹介され、ベルリン五輪から80年以上がたった今でも、語り継がれている。

     大江選手は14年に京都府舞鶴市で生まれ、慶応大在学中にベルリン五輪に出場した。当時の東京日日新聞号外によれば、幼い頃は体が弱く、父親の勧めで棒高跳びを始めたという。めきめき上達する息子の姿は父親を喜ばせ、五輪で使用したポールは父親が竹を枯らして3本作ったとも報じられている。大江選手は後に陸軍に召集され、ベルリン五輪から5年後の41年12月24日、フィリピン・ルソン島で戦死した。27歳の若さだった。遺品からは、あのつなぎ合わせたメダルが見つかった。

     一方、西田選手は10年和歌山県那智村(現那智勝浦町)生まれ。早稲田大の学生だった32年のロサンゼルス五輪でも棒高跳びで2位となっており、ベルリン五輪では2大会連続の銀メダル獲得となった。現役引退後は日本陸上界の発展に尽力し、母校の早稲田大競走部監督のほか、日本陸上競技連盟理事長などを務めた。競技への熱意と、気さくさ、優しさにあふれた人柄で、多くの人に慕われた。晩年、親しい人に「ベルリン五輪で私が2位、大江選手が3位になったのは、審判のルール解釈のミス。本当は2人とも2位のはず」と打ち明けていたという。また「(戦争のため中止になった)40年の東京五輪に大江君が出ていれば、必ず金メダルを取った」とも話していた。同連盟名誉副会長だった97年4月13日、87歳で心不全のため死去。容体が悪化した際、親族の希望でベルリン五輪のメダルが当時の展示先から取り寄せられ、病床の近くに置かれたという。

     西田、大江両選手にとってかけがえのない宝物だった「友情のメダル」。現在、西田選手のメダルは早稲田大が、大江選手のメダルは秩父宮記念スポーツ博物館が、それぞれ保管している。【関根浩一】

    関根浩一

    東京本社オリンピック・パラリンピック室委員。1985年入社。東京本社事業本部、千葉支局、成田支局、情報編成総センターなどを経て、2017年4月からオリンピック・パラリンピック室。サッカー観戦が趣味でこれまで多くの日本代表戦に足を運んでいる。最近はスコッチのソーダ割りを飲みながらボサノバを聴くのが楽しみ。