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毎日新聞

第4回ロンドン大会男子マラソンで競技役員らに介助されてゴールするピエトリ選手(手前右から2人目)=1908年7月24日撮影

オリパラこぼれ話

陸上競技の花形種目 男子マラソンで珍事続出

 五輪の陸上競技の花形種目で世界の注目を集めるマラソン。近代五輪初期の大会では男子マラソンで珍事が続出していた。その頃の様子を報じた毎日新聞などによると、第3回セントルイス大会(1904年)は、気温30度を超える8月の猛暑の中、32選手が参加した。40キロのコースには七つの丘があり、未舗装道路で給水所は1カ所という過酷な状況下でのレース。完走者は14人だった。

    第3回セントルイス大会男子マラソンで優勝したヒックス選手(中央)=1904年8月30日撮影

     トップでゴールしたのは地元米国のフレッド・ローツ選手だった。しかし、レース途中で自動車に乗っていたのだ。ローツ選手は20キロ過ぎに暑さから意識がもうろうとし、足もけいれんを起こして道路に倒れ込んでしまう。そこを通りかかった車の運転手に声を掛けられ救助されたが、残り8キロ付近で車が故障。車から降りて再び走り出し、そのままゴールした。祝福されて写真撮影などをしているローツ選手を見た運転手は憤慨して事のてんまつを全て暴露した。この不正の様子は「キセル事件」として語られている。

     失格となったローツ選手に代わって優勝したのは同じく米国のトーマス・ヒックス選手だった。ローツ選手から約1時間後にゴールしたもののトレーナーから興奮剤を与えられていたという疑惑が浮上した。当時はドーピングの規定もなく検査が実施されていなかったため、事実関係ははっきりしていない。同検査は68年のメキシコ大会から導入されている。

     第4回ロンドン大会(08年)では不本意な優勝取り消しが起きた。初めて42.195キロのコースで7月に実施され、55選手が出場。トップでゴールの競技場に戻ってきたのは、イタリアのドランド・ピエトリ選手だった。高温多湿の天候で疲労が頂点に達し、ふらふら状態。何度か倒れゴールと逆方向によろめきながら走ってしまった。2位の米国選手が競技場に現れると、見かねた競技役員らはピエトリ選手を介助してゴールさせた。米国からの抗議でピエトリ選手は失格となった。自らの要請で助けられたわけではないことに同情した英国の皇太后からトロフィーが贈られた。

    第5回ストックホルム大会男子マラソンでスタートして競技場を出る金栗選手(左)=1912年7月14日撮影

     さらに日本が初めて五輪参加を果たした第5回ストックホルム大会(12年)。マラソンには金栗四三(かなくり・しそう)が出場した。マラソンは7月に68選手が40.2キロのコースで競った。朝から快晴で強烈な日差しが照りつけていた。外国選手はスタート時点から猛スピードで走り出し、金栗選手も追走したがレース中盤過ぎに暑さのため意識を失って途中棄権した。沿道の農家の人に介抱されて目を覚ました後に宿舎に直接戻ったが、大会本部に棄権が伝わらず「行方不明」扱いになっていた。スウェーデンのオリンピック委員会は67年に五輪開催55周年の記念行事をする際、75歳になっていた金栗選手を招待。懐かしい競技場で金栗選手が数十メートルを走り念願のゴールテープを切った。「タイムは54年8カ月6日5時間32分20秒3。これをもってストックホルム五輪の全日程を終了します」とアナウンスが流れるとスタンドから拍手がわき起こったという。

     マラソンはアテネで1896年に始まった近代五輪の第1回大会から採用された種目。紀元前5世紀末にアテネの北東部に位置するマラトンでギリシャ軍がぺルシャ軍に勝利し、それを伝えるためマラトンからアテネまで走った故事から長距離競技が取り入れられたとされる。マラソンの名称はマラトンの地名からで、ギリシャ語のマラトンは英語では「マラソン」と発音することが語源という(「オリンピック・パラリンピック大百科3」小峰書店)。

     また、近代五輪創成期は男子マラソンの距離が大会ごとに異なっていた。第1回アテネ大会はマラトン・アテネ間のコース約40キロだった。1900年の第2回パリ大会は40.26キロで、次のセントルイス大会は40キロ。続くロンドン大会は42.195キロで、英国王妃が子どもたちにスタートを見せたがり、スタート地点が城の庭になった、フィニッシュは貴賓席前にするよう指示があったなどの説でコースの距離が少しのびたとされる。その後も40キロほどで推移したが、24年の第8回パリ大会から現在の42.195キロに統一された。【関根浩一】

    関根浩一

    東京本社オリンピック・パラリンピック室委員。1985年入社。東京本社事業本部、千葉支局、成田支局、情報編成総センターなどを経て、2017年4月からオリンピック・パラリンピック室。サッカー観戦が趣味でこれまで多くの日本代表戦に足を運んでいる。最近はスコッチのソーダ割りを飲みながらボサノバを聴くのが楽しみ。