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毎日新聞

相島勘次郎記者が1908年9月に大阪毎日新聞に連載した「マラソン競走」の記事

オリパラこぼれ話

日本初の五輪報道 1908年ロンドン大会マラソン

 1908年7月24日に行われたロンドン五輪マラソンは、猛暑の中、棄権者が多く出るレースが繰り広げられた。ゴールの競技場は観客で埋め尽くされ、先頭のランナーが姿を見せると、大歓声が湧き起こった。観客の中には、大阪毎日新聞社(毎日新聞社の前身)の相島勘次郎記者もいた。相島記者はこの時の模様を同年9月に「マラソン競走」と題して大阪毎日新聞で5回にわたり連載。これが日本で初めて報じられた五輪競技の記事とされている。

    1908年のロンドン五輪マラソンのスタート地点だったウィンザー城=2012年3月15日、石井朗生撮影

     連載は俳人でもある相島記者のペンネーム「虚吼(きょこう)」が使われた。連載の中では五輪を「世界的な運動会」と表現。ロンドン五輪の概要をはじめ、マラソンについては発祥の歴史やレース当日の経過、猛暑で棄権者が出たことの解説、観客の熱狂ぶり、死闘のゴールの様子などを伝えた。自らを運動論者で運動を奨励する一人とし、参加国が英国や米国、オランダ、ドイツなどと紹介した上で、最後に「世界一等國(国)の伍伴(ごはん=仲間)に列せんとするには軍艦の数ばかりではいかぬ此(こ)の次には日本も彼(か)の運動同盟に加は(わ)り選手を送る様(よう)にしたいものである」とつづった。

     報道を機に大阪毎日新聞社は翌年の09年3月に神戸・大阪間の20マイル(約32キロ)を走る「マラソン大競走」を開催した。日本で初めてのマラソンの名が付いた大会だった。

     同年5月には、東京高等師範学校校長だった嘉納治五郎が、国際オリンピック委員会(IOC)会長だったクーベルタンから「アジアでのオリンピック運動の発展、普及を」との要請を受けてIOC委員に就任した。日本は3年後のストックホルム大会(12年)で初めて五輪に参加。金栗四三選手がマラソン、三島弥彦選手が短距離にそれぞれ出場した。

     実は相島記者はロンドン大会当時、諸外国の情勢や文明などを視察して回る通信部長という立場。ロンドンを訪れたのは、五輪と同じ時期に開かれていた博覧会の取材が目的だった。居合わせて、五輪を見る機会に恵まれた相島記者が望んだように、日本がスポーツで世界への仲間入りを果たした。【関根浩一】

    関根浩一

    東京本社オリンピック・パラリンピック室委員。1985年入社。東京本社事業本部、千葉支局、成田支局、情報編成総センターなどを経て、2017年4月からオリンピック・パラリンピック室。サッカー観戦が趣味でこれまで多くの日本代表戦に足を運んでいる。最近はスコッチのソーダ割りを飲みながらボサノバを聴くのが楽しみ。