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2050年のメディア

第15回 プロの選球眼かクラウド査読か? 岐路にたつ科学ジャーナル=下山進

科学ジャーナルは、その雑誌に掲載される論文の頻度で、インパクトファクター(IF)という指標がある。研究者はインパクトファクターのできるだけ高い雑誌に投稿しようとする。今回論文が取り消された「ランセット」はIFが40以上ある名門だった。

 <Susumu Shimoyama “MEDIA IN 2050”>

 私が今、取材をしている次の単行本『アルツハイマー征服』で会った研究者の中には、あるアルツハイマー病の遺伝子を発見してから、論文が科学ジャーナルに掲載されるまで6年かかった研究者がいた。その研究者は、「研究を始めて10年目にしてようやく一本論文が通った、これで首がつながったと、心底ほっとした」と語ったものだった。

『ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディスン』や『ネイチャー』『ランセット』といった科学ジャーナルについて、一度は名前を聞いたという人も多いだろう。

 研究者は新発見があれば、それを論文にまとめ、これらの科学ジャーナルに投稿する。これらの論文は、編集者が取捨選択した後に、その分野の専門家による査読にまわされる。

 3人程度の匿名のレビュアーがその論文を熟読玩味し、その発見が根拠のあるものなのか、意義のある新発見なのかを判定する。査読が一発で通ることは少なく、たいていはコメントがつけられて却下されるか、または、査読者によるコメントにしたがって研究者は実験や検討を重ね再投稿することになる。

 晴れて掲載になれば、その研究は認められたということになる。研究費や将来のポストにもつながる。研究者はこれらの雑誌に、自分の研究が掲載されることを目標として日夜研究に励む。

 それが、このコロナ禍の拡大によって、大きく変わりつつある。

プレプリントサーバーのbioRxiv。もともとは物理や数学の分野でこうしたプレプリントサーバーの試みは始まっていた。正式な表記はbioRχivで、χはエックスではなくギリシャ文字のχ(カイ)

 多くの科学者が、こうした科学ジャーナルに投稿する前に、bioRxiv(バイオアーカイブ)というサーバーにその草稿(プレプリント)をまず投稿し、公表するようになってきている。

 2013年11月に開設されたこのサーバーへの投稿がなぜ急増しているのか。それは、COVID―19関連の研究が、その知見を一刻も早く共有することが社会的に求められているからだと、東京大学大学院医学系研究科教授の岩坪威(たけし)は語る。

「科学ジャーナルの査読から掲載までは、早くて数カ月、長ければ1年といった時間がかかることもあります。それではこの感染の拡大に間に合わないということで、プレプリントサーバーへの論文の投稿が増えているということなのだと思います」

 岩坪は、認知症研究の第一人者だが、認知症研究でも、科学ジャーナルに投稿する前に、bioRxivに投稿する研究者が増えてきているのだという。

 しかし、これは微妙な問題もはらんでいるとも岩坪は指摘する。

 プレプリントサーバーは投稿すれば、数時間でサーバーに論文がアップされる。しかし、査読も編集の手も入っていないので、当然間違いのある研究もある。

 たとえばCOVID―19関連の研究では、スタンフォード大のジョン・ヨアニディスという教授が、COVID―19での死亡率は考えられているよりもはるかに低いという論文を、5月19日にプレプリントサーバーに投稿した。

〈COVID―19は深刻な脅威であるが、感染死亡率は、当初考えられていたよりもはるかに低い〉〈鳥瞰(ちょうかん)する視点でみれば、インフルエンザの感染死亡率と変わりない〉

 しかし、この論文は投稿されるやいなや、「木をみて森を見ない」と厳しい批判と非難にさらされた。確かに、感染者数と死亡者数だけを単純に比較すればそうした結論が導かれるのかもしれないが、COVID―19は、このような厳しいロックダウンの中でも、感染者と死亡者数を増やしていることを、この論文は忘れている、政治的にも利用される、ということだ。

 しかし科学ジャーナルの査読も万全ではない。

 故意の不正をするものに対しては何度も騙(だま)されてきている。刺激をあたえるだけでなんにでもなれる万能細胞になるというふれこみの「STAP細胞」は、実はES細胞のすりかえだった。それを『ネイチャー』の査読者は見抜けなかった。

 また、アルツハイマー病研究では、1991年12月12日号の『ネイチャー』に、アルツハイマー病遺伝子を組み込んだトランスジェニックマウスができたという論文がマウスの脳の写真付きで掲載されたが、このマウスの脳の写真は、実は、人間のアルツハイマー病の患者の脳の写真だった。日々、マウスや人間の脳のスライドを見ている病理の研究者にとっては、あまりにも明白なすりかえだったが、査読者の中には、病理を専門とする学者がいなかった。

 今回のCOVID―19でも、『ランセット』誌で、マラリアの治療薬ヒドロキシクロロキンの有害性についての論文が取り下げられる失態があった。トランプ大統領も服用しているこの薬について、当該論文は、効果がないとしたうえで、逆に死亡率がはるかに高まるとしていた。論文はデータ会社のデータを使っていたが、それが信頼できない、と指摘され、データ会社は生データを提示することができなかった。

 果たして少人数のプロがチェックするのがいいのか、ウェブによるクラウド査読がより効果的なのか、わからなくなってくる。

 ちなみに、プレプリントサーバーに投稿しただけでは、最初にその発見をしたということは主張できない、と岩坪は言う。現在でも、査読者のいるきちんとした雑誌で認められて初めて、その研究は真正とされ、歴史に残ることになるのだそうだ。

 少数のプロの選球眼が正しいのか、多数のクラウドによる選択のほうがより正しいのか。

 この問題は、科学ジャーナルだけの問題ではない。ジャーナリズム全般にかかわる問題でもあるので、今後もこの連載でとりあげていく。


下山進氏

しもやま・すすむ

 2018年から慶應SFCと上智大新聞学科で調査型の講座「2050年のメディア」を開く。

文藝春秋で長くノンフィクションの編集者を務めた。著書に『勝負の分かれ目』『2050年のメディア』など

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