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文藝春秋で長くノンフィクションの編集者を務めた下山進氏が「2050年のメディア」を展望します。

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第23回 政治家に頼らず市民の政策提言に道 『新潟日報』「最後の角栄番」=下山進

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小田敏三。新潟日報社で。1974年に新潟日報に入社し、本社報道部長、編集局長などを務めて2014年3月から社長。 拡大
小田敏三。新潟日報社で。1974年に新潟日報に入社し、本社報道部長、編集局長などを務めて2014年3月から社長。

 <Susumu Shimoyama “MEDIA IN 2050”>

「同じ大正生まれの俺は角さんの言うことがわかる。日本の地方は貧しいんだ。地元にいかに金をひっぱってくるか、それが政治家の仕事だ」

 新潟の県紙、「新潟日報」の記者である小田敏三(おだとしぞう)は、田中派の代議士の一人、梶山静六がそう言うのを聞いて虚を突かれた思いだった。

 田中角栄が、ロッキード事件で逮捕され、刑事事件の被告として裁判を戦いながら、必死にその権力の座を守ろうとしていたころの話である。

「最後の角栄番」と後に称されることになる小田は、別に田中に媚(こ)びへつらったわけではない。

 もともと、新潟日報に藤崎匡史(ただし)あり、と言われた名報道部長に、「東京で角栄裁判をみてこい」と言われてロッキード裁判の傍聴を始めたのがきっかけだった。サツネタをそれまで追ってきた事件記者だった。県警担当時代、捜査二課が追っていた収賄事件が、政治家の圧力で揉(も)み消されていくのをまのあたりにしていたから、むしろ政治家は嫌いだった。

 地方紙には、社会部も政治部もない、報道部としてなんでもやらされる。報道部長からは、裁判傍聴記を毎週書くことだけでなく、「角栄の実像を追え」というオファーもきている。

 だから、目白の角栄邸に毎朝通った。全国紙のようにハイヤーが使えるわけではなく、電車を使って目白駅までいき、歩いて角栄邸に毎朝7時30分にはいくのである。

小田が書いていたロッキード裁判の傍聴記。公判は水曜日にあり、毎週木曜日の朝刊に掲載された。
小田が書いていたロッキード裁判の傍聴記。公判は水曜日にあり、毎週木曜日の朝刊に掲載された。

 しかし、ロッキードの裁判を傍聴し、傍聴記を書いている小田は、全国紙の政治部の田中番からは完全に排除された。小田がいると、「わが派からは出ていってもらおう」と懇談にも出してもらえなかった。

 全国紙は政治部と社会部ははっきりわかれており、裁判の傍聴をして記事を書くのは社会部の記者の仕事。その社会部の記者がやっていることをやっている小田は、「わが派」の敵というわけである。

 小田は、今でいう調査報道の手法で、田中の終戦直後の経歴の中での噓(うそ)を見抜き、そのすべてを知っているはずの星野一也を探し歩く。星野は、終戦時、理研ピストンリングの柏崎工場長で、土建業を営んでいた角栄に朝鮮での仕事を与えた恩人だ。角栄が選挙に立候補してからは、後援者として支援した。探し出した自宅は千葉。その千葉の自宅にもおらず、パーキソン病を患って下田のサナトリウムにいた。

 田中角栄は、論告求刑を前にして一番苦しい時期だった。小田が訪ねると、「角栄はつらいな」と言って一通の手紙をしたため、それを角栄に渡してほしいと言った。

 小田は、田中角栄に直接その手紙を渡すことができた。

 角栄はその場で手紙をじーっと読んでいた。そのあとから、目白邸にいくと昼には、「おい飯くってけ」と声がかかるようになった。

 このようにして目白邸に通いながら、裁判の傍聴も続けるという唯一の記者となり、大きな仕事もいくつかした。

 が、師事していた藤崎が社内抗争でつぶされ、子分と見られていた小田は、東京から新潟にかえってきた時には、整理部に飛ばされてしまう。うつ病になっていた藤崎は、「すまんなあ、小田君」と謝るばかりだった。小田はもくもくと見出しをつけ続けた。

 そして2年半。

 もう会社を辞めようと思っていたときに、後に社長(2008年~2014年)になる高橋道映(みちえい)から、小田はある飲み屋に呼び出される。

 その席には、小田を飛ばした社内の実力者がいた。高橋からは、「今日は何も言わず、整理部は勉強になりましたと言え」とふくめられていた。案の定、その実力者は、「君は整理部にいるのが面白くないそうじゃないか。俺を恨んでいるのか」と挑発をしてきた。

「いやそんなことないですけど、こういう先輩が早くいなくなればいいと思うことはありますよ」という言葉がつい出てしまった。その実力者の顔色がさっと変わった。

「俺のことかっ」

 横山秀夫の小説であれば、ここで、小田のキャリアは終わり、一生を通信部で終えるということになる。が、歴史はそうはならなかった。

 次の異動で、市政番に戻る。社会党委員長土井たか子のマドンナブームが吹き荒れるなか、権力の空白が生じた新潟の政界を、保守革新ともに取材できるのは、小田しかいないということになり、八面六臂(ろっぴ)の活躍をすることになるのである。

 小田は今、新潟日報の社長である(2014年~)。

 政治家は、梶山の言うような貧困を知った世代から、小沢一郎のような日本の成長期に育った世代、そしてさらにその下のふわふわと実態の伴わない言葉遊びをしている世代へと変わっている。新潟選出の代議士に、かつての田中や小沢辰男、桜井新のような個性のある政治家はいない。

 小田は、それはしかたのないことだと思っている。

 政治家に期待ができなければ、市民の側が政策を提言し、それを新潟日報が手伝おう。そう考えて、各地域ごとに市民の代表が10年後を見据えた地域の政策を考え、首長に提言していく「未来のチカラ」という紙面連動型の事業を始めた。

 2019年5月から始まったその事業は、上越、魚沼、長岡の三地域を終えた。2020年夏まで新潟の20市6町4村の新しい地域の形を市民と一緒につくりあげていく。


下山進氏 拡大
下山進氏

しもやま・すすむ

 2018年から慶應SFCと上智大新聞学科で調査型の講座「2050年のメディア」を開く。文藝春秋で長くノンフィクションの編集者を務めた。著書に『勝負の分かれ目』『2050年のメディア』など

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