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2050年のメディア

第31回 未来の需要を感じ取れ 組織全体に「熱量」届ける伝説の書籍営業マン=下山進

山本喜由。伊勢の漁師町の出身。文藝春秋、伝説の営業マンだった。

 <Susumu Shimoyama “MEDIA IN 2050”>

 山本喜由(きよし)は、1982年に、新卒で教科書出版の営業職になって以来、38年間ずっと現場で走り続けていた。教科書出版から、文藝春秋の中途採用試験をうけて一般書の営業に転じたのが、1990年7月。

 その営業の山本さんに私が遭遇したのが、2002年4月に出した『本当の学力をつける本』でのことだった。

 当時私は、ノンフィクションのある単行本で大きな失敗をした直後のことだった。新しく赴任した局長のもとで、起死回生の一打として、塾もないやまあいの小学校で、「百ます計算」などの反復学習をくりかえして、大きな成果をあげている小学校教師に注目。その人の本をつくった。

 が、4月上旬刊のラインアップで、社が期待する目玉の商品は、他社でベストセラーを出している他の著者のものだった。私が担当したその本は、ひっそりと1万部でスタートした。

 が、山本さんは、本が出る前から「(目玉となっている本ではなく)この本のほうが可能性がある」と言ってくれていた。

 2002年4月から学習内容を3割削減する「ゆとり教育」が始まる。自ら学ぶ調査学習にこそ子どもの伸びる道がある、だから「総合学習」だ――と言っていた時代。そんなことはないだろう。イチローだってキャッチボールから始めてあそこまでなった。ドリルによる反復学習でまずは「できる」ようになること。そんな孤高の学習指導を続けているその教師の本に、山本さんは何かを感じてくれていたのだ。

 配本日からすぐに、1万部の重版が決まった。これは10割重版といって、データを積み上げて前例から重版を決めている営業の定石からいうと、やってはいけないこととされていた手だ。事実、山本さんは、データをみている同僚から「そうすると営業の初版部数設定がそもそも間違えていることを編集に報(しら)せることになる」と厭味(いやみ)を言われたりした。

 が、さらに3万部の重版をかけ、次いで5万部の重版と一気に戦線を広げた。

 各書店からのpOSデータが10倍といった感じで跳ね上がった。

 営業というのはこういうふうにするのかと震えた。

 つまり、過去のデータではなく、これはいけるという独特のカンをおいかける形で、潜在的な需要を掘り起こしたことがよくわかった。

「盲導犬クイールの一生」。現在手に入るのは文庫の新装版

 この手法を迷いなくとれるようになったのは、その前年3月に出た『盲導犬クイールの一生』の経験があってのことだったのだというのは、今回山本さんに聞いて初めてわかったことだ。

 教科書出版から一般書の営業にうつってきた山本さんは、どう一般書を売っていったらいいのかがわからず、長く苦しんでいたのだという。教科書副読本の場合、学校ごとに採用してもらうよう教員に働きかける。それでOKになればよい。しかし、一般書は、見えない広い読者を相手にしなくてはならない。

『盲導犬クイールの一生』の初版は6000部。担当編集者の藤田淑子(よしこ)が、盲導犬の誕生からその死までを撮り続けた秋元良平の写真に感動してつくった本だ。

 見本日に山本は手にとって読み始めたが、泣けてしかたなかった。ふとみると営業部長も読みながら目をぬぐっている。

「山本、小学校の時に読んだ『フランダースの犬』以来だな」

 これはいけると思ったが、臆病風に吹かれた。データからいえば、重版は2000部が妥当だ。最初は、2000部、3000部の重版を重ねていた。まだ前例を踏襲する営業の軛(くびき)を逃れるだけの勇気がなかった。しかし、刊行から1年たった頃、部長が「山本、勝負だ」と言った。一気に5万部(この時点で22刷)をかけて、新聞の全5段の広告を打つという。出版の取締役、局長と連携してのことだった。担当の女性の営業が、小学生でも読めるようにもっとルビをふってはどうかというアイデアを出して編集の藤田もそれをうけいれた。

 これがあたった。『盲導犬クイールの一生』は最終的に82万2700部を売ることになる。その興奮さめやらぬ時に出たのが隂山英男の『本当の学力をつける本』だったのだ。『本当の学力をつける本』は累計で48万5000部を売った。

 以来、私は山本さんのこの営業スタイルに何度となく助けられた。山本さんはよく言っていた。「多くの営業や編集は、過去のデータから仕事をする。ごく一握りの営業や編集が、未来の需要を感じ取って仕事をする」

 そうした未来の需要を感じ取った人間が組織全体に熱量を届けることができた時に、部の垣根を越えた大きな仕事ができるのだという。

 これは、出版社だけでなく、新聞、テレビ、すべてのメディアに共通することだろう。

 山本は、今年8月に長年勤めた文藝春秋を退いた。

 埼玉県川越に住む山本は、今は払暁から入間川の支流である小畔(こあぜ)川沿いを歩く。一日3時間。スマートホンの万歩計で2万歩になる。

 こんなふうに歩くようになったのは、会社を離れてからだ。歩いていると、脳裏にあの本のこと、この本のこと。一緒に仕事をした仲間との熱い記憶がよみがえってくる。

 泣いた。笑った。楽しかった。

 わが営業人生に悔いなし。


下山進氏

しもやま・すすむ

 2018年から慶應SFCと上智大新聞学科で調査型の講座「2050年のメディア」を開く。文藝春秋で長くノンフィクションの編集者を務めた。著書に『勝負の分かれ目』『2050年のメディア』など

サンデー毎日

サンデー毎日は毎日新聞出版から毎週火曜日に発行されている週刊誌。1922年に日本で初めての総合週刊誌として創刊されました。

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