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新・炉辺の風おと

「西の魔女が死んだ」などで知られる作家・梨木香歩さんが、日々の生活をつづります。

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新・炉辺の風おと

/16 半返し縫いの日々/4=梨木香歩

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 数週間ぶりに山小屋に着いたのは、もう昼をとうにすぎ、暗くなり始めていた時刻だったので、鳥のための食事箱を準備することはせずその日を終えた。翌朝、コガラの声で目が覚めた。反射的に寝ぼけ眼で立ち上がり、台所で鳥用ひまわりの種を皿に入れ、テラスへの硝子(ガラス)戸を開け、一歩踏み出したその瞬間、一羽のコガラが近くの木立から飛んできて、私のすぐ手前でホバリングを始めた。まるでディズニー映画の一場面のようだった。嬉(うれ)しそうなコガラ。食事箱を差し出せばすぐにそこから食べ始めると確信したが、互いに馴(な)れ合ってはいけないというブレーキがかかり、そのままいつものようにテラスの手すりにそれを置いた。ホバリングしていたコガラはすぐに手すりに止まり、挨拶(あいさつ)するように私を見上げ、小首を傾(かし)げて見つめた。目が合った。くりくりした可愛らしい瞳。この間、数秒にも満たなかっただろうが、私には時間が止まって感じられた。コガラはこれで礼は尽くしたと思ったのか、すぐに食事箱のひまわりを突(つつ)き始めた。私は室内に戻り、テラスへの硝子戸を閉めた。幸福すぎてもの悲しかった。幸福に耽溺(たんでき)できない質(たち)なのか、いや貧乏性でちょっとしたことですぐに満足するので、少し幸福の量が多いだけで、簡単に閾値(いきち)をオーヴァ…

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