連載

大学倶楽部・立命館大

公式HP:http://www.ritsumei.jp/ 所在地:〒604-8520 京都府京都市中京区西ノ京朱雀町1 電話:075-813-8300

連載一覧

大学倶楽部・立命館大

「知ることで見方変わる」 庵逧教授が見た北朝鮮の人々

  • はてなブックマーク
  • メール
  • 印刷
庵逧由香教授
庵逧由香教授

6度の訪問、管理社会のすき間に柔和さ 変化を実感

 10月10日に朝鮮労働党創建70周年を迎えた北朝鮮。拉致事件にミサイル発射、後を絶たない脱北者……。正体の知れない怖い独裁国家というイメージが強い。北朝鮮の人ってどんな人なのだろう。国交のない北朝鮮を研究目的などで6回訪れている立命館大文学部の庵逧(あんざこ)由香教授(49)に尋ねた。

北朝鮮北部の羅南近郊の小学校で2003年10月、興味深げに近づいてきた子どもたち
北朝鮮北部の羅南近郊の小学校で2003年10月、興味深げに近づいてきた子どもたち

 庵逧教授は朝鮮近現代史が専門。高麗大大学院など韓国に計約10年間留学し、コリア語が堪能だ。訪朝は1991〜2013年の計6回に及び、最高指導者の金日成(キムイルソン)、正日(ジョンイル)、正恩(ジョンウン)氏の3代すべての時代を知る。今年11月にも訪朝を予定している。

 訪問場所は事前許可が必要で、日本語が堪能な案内人が必ず同行した。胸には金日成氏の赤いバッジ。融通が利かない人がいる一方で、緩い人も。軍関係施設の撮影は禁止され、出国時にデジカメの撮影画像をチェックされた。貧しくみえる建物や人物も「消してください」。

 首都・平壌は「外国人向けのショーケース」と言われる。94年、デパートで買い物中、ひょいと抜けて街を散歩してみた。裏通りの食堂に入り、牛肉スープ(ソルロンタン)を注文したら、店員が「メニューが違った」と値段が高い外国人用のものに差し替えた。食後に街を歩いていると、中年女性が外国人と気づき、「来たらダメ!」。最後は大学生に呼び止められ、デパートへ戻った。

北朝鮮北部で05年9月、名所の兄弟岩を背景に、案内人(左)らと。中央が庵逧由香教授
北朝鮮北部で05年9月、名所の兄弟岩を背景に、案内人(左)らと。中央が庵逧由香教授

 監視の目が厳しい社会だが、ささいな行動や気遣いに素顔が垣間見える。

 03、05年は北部にある旧日本陸軍の慰安所跡を調査した。05年は在日の女性研究者とともに車で移動し、県境では許可証を見せて通過。田んぼの真ん中で休憩した。「青年号」というローカル線の電車が近づいて来る。思わずパシャパシャ撮影したら、車が急停車し、運転手が叫んでいる。しまったと思っていたら、運転手は「もっと撮ってくれ」とアピールしていた。

 平壌から北部・清津(チョンジン)には片道約23時間かけて寝台列車で行った。2人の案内人が付き、ベテランの女性は段ボール箱いっぱいの食べ物を持ち込み、「食べてください」。要望にも応えてくれた。新人の男性はサービスのつもりか、際どいわい談を始めた。

 中国国境の会寧(フェリョン)は、観光開発されてきれいな街だった。現地の人民委員会がインタビュー調査に協力的で、日本の植民地時代(1910〜45年)を知る年配者を集めてくれた。年配女性が証言中に政府批判を始めてヒヤヒヤしたが、おとがめはなかった。慰安所跡など10カ所を回り、夜は冷麺などで歓待された。「韓国の田舎と同じで、人がいい」と庵逧教授。外国人と知ると、子どもたちがキラキラ光る笑顔で近寄ってきた。

 初訪朝は91年、津田塾大大学院生だった24歳の時。国際的な議員組織の列国議会同盟(IPU)総会が平壌で初開催され、人権擁護組織「アムネスティ・インターナショナル日本」の一員として参加した。公式行事で、豆粒大にしか見えない金日成氏を見た。夜には20代の男性案内人とバーへ。結婚相手をどう見つけるのか聞くと、「お見合いはほとんどなく、職場や遊びに行った先で知り合う」との答えだった。

平壌近郊、南浦の解放公園で12年5月、ハマグリにガソリンをまき、ライターで火をつける名物料理ガソリン焼き。おじさんたちが「食べなさい」
平壌近郊、南浦の解放公園で12年5月、ハマグリにガソリンをまき、ライターで火をつける名物料理ガソリン焼き。おじさんたちが「食べなさい」

 北朝鮮の工作員による大韓航空機爆破事件の4年後で、友人らは心配したが、「飲食店や売店などで接する人は、思っていたより態度が柔らかくて、普通のおじちゃんやおばちゃん、純粋な若い子でした」。

 食料危機や大水害、電力不足が伝えられる北朝鮮。貿易港の清津では夜も電気がつかない古いホテルだった。地方に行く時は「懐中電灯持参を」「水は飲むな」と助言されていた。平壌の高級ホテルでも階によってはお湯が出なかった。めぼしい建物の多くは、朝鮮戦争(50〜53年)の空爆被害を免れた植民地時代のものだった。

2012年4月、夜の平壌駅。首都の主要駅だが、駅以外は照明がほとんどない=北朝鮮の写真は、いずれも庵逧教授撮影・提供
2012年4月、夜の平壌駅。首都の主要駅だが、駅以外は照明がほとんどない=北朝鮮の写真は、いずれも庵逧教授撮影・提供

 90年代は100万人単位が餓死したとの情報もある。大半の人はやせていて、地味な人民服などを着ている。中部の都市を訪ねた時には、通勤者が行き交う公園で、物乞いと思われる汚れた服装の10歳くらいの少女を見た。

 その一方で変化も。訪朝時には現地の女性に合わせて、普段あまり着ないスカートをはいた。しかし、7年ぶりに訪れた2012年には、パンツ姿の女性を目にして驚いた。労働党の指令で解禁されたという。土産品の品ぞろえも豊かになり、街では中国から輸入した韓国製の自動車やカップ麺も普通に見かけた。案内人は連絡にスマートフォンを使っていた。

 お膳立てされた調査や視察で、限界はあるだろう。それでも、現地の人が普通に笑い、けなげに生きていることはうかがい知れた、と庵逧教授はいう。

 3人の兄が北朝鮮に「帰国」した映画監督の梁英姫(ヤンヨンヒ)さんは、著書「北朝鮮で兄は死んだ」(七つ森書館)で訴えている。「国のシステムについての嫌悪感がそこで暮らす普通の人々に対する嫌悪や先入観になるのは、絶対に避けるべきだ」

 庵逧教授は「外国人の私に話すことで迷惑をかけるのではないかと遠慮しましたが、意外に話してくれた。もっと聞けば良かった」と振り返る。北朝鮮にさらなる公開を注文する一方で、「実態が伝わらないのは、対等な国として考えていない日本政府の態度にも原因がある」と指摘。最大の懸案の拉致事件について「経済制裁では一歩も前進しておらず、先に国交正常化した方が解決につながるのではないでしょうか。正常化すれば訪問しやすくなり、日本人の偏見も変わるのでは」と訴えた。【大澤重人】

あわせて読みたい