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青い目の人形の「アン」京都で見つかる 来月2日から国際平和ミュージアムで公開

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「青い眼をした人形 憎い敵だ許さんぞ」「仮面の親善使」といった見出しが並ぶ1943年2月19日付の毎日新聞夕刊 拡大
「青い眼をした人形 憎い敵だ許さんぞ」「仮面の親善使」といった見出しが並ぶ1943年2月19日付の毎日新聞夕刊
新たに見つかった人形「アン」を抱く御前さん(右)と中野さん 拡大
新たに見つかった人形「アン」を抱く御前さん(右)と中野さん

 日米関係が悪化し始めていた昭和初期、米国から日本に1万体以上贈られた「青い目の人形(友情人形)」の一つ「アン」が今年4月、京都市右京区の民家で見つかった。当初は「日米親善人形」として各地の小学校などに配られながら、太平洋戦争が始まると「敵性人形」として次々と破棄され、現在は全国で約330体、京都府内には7体残るだけだった。新たに確認されたアンは“平和を考える人形”として8月2日から立命館大学国際平和ミュージアム(同市北区)で開かれる「平和のための京都の戦争展」で初公開される。

 青い目の人形は、1927(昭和2)年、親日家だった米国人宣教師、シドニー・ギューリック博士らが日本に届けた。当時、米国では「排日移民法」が成立するなど日本人移民排斥の動きが高まっていた。ギューリック博士らは両国民の感情を和らげようと、日本のひな祭りに合わせ米国から人形約1万2000体を贈った。

 おがくずなどを固め製作し体長約40センチ。1体ずつ名前があり、パスポートも持っていた。日本側では実業家の渋沢栄一が受け入れに協力し、全国の小学校や幼稚園に配布。当時人気だった野口雨情の童謡にちなみ「青い目の人形」と親しまれた。

 しかし41年12月に太平洋戦争が開戦。日本の戦況悪化に伴い憎悪の対象となった。43年2月19日付の毎日新聞夕刊は「『青い眼をした眠り人形』は今にして思えば恐ろしい仮面の親善使であった」と報じている。「憎い敵だ許さんぞ」「仮面の親善使」などと見出しでうたい、記事では青森県内の小学校で児童を対象に実施した人形の処分方法のアンケート結果を紹介。焼いてしまえ133人◇目の付く所に置いて毎日いじめる31人◇白旗を肩にかけて飾っておく5人−−などと伝えている。

 青い目の人形の調査や紙芝居での読み聞かせ活動を続ける元小学校教諭の中野恭子さん(70)=城陽市=は「日米親善のため贈られた人形が、開戦すると戦意高揚のプロパガンダに使われた。そして次々と破棄されていった」と語る。中野さんによると当時、児童の前で人形を燃やすなどして処分した学校や、京都では人形供養で知られる宝鏡寺に持ち込んだ学校もあったという。

 府内8体目のアンは、右京区の御前東美さん(80)の自宅押し入れで、紙に包まれた状態で見つかった。御前さんは小学校教師だった母親が、戦時中に市内の小学校から引き取り保管していたと推測する。「母は処分するのは忍びないと思ったのでしょう。長い間、閉じ込めたままで申し訳ないことをしました」と振り返る。

 経年劣化で髪の毛や右腕が傷んでいるが、人形の背中には製造した米国のメーカー・ジェヌウィ社の印があった。確認に立ち合った中野さんは「壊されずによくぞ残っていてくれた。まるで人形が呼んでいたかのよう。青い目の人形を平和の使者として語り継いでいきたい」と話す。

 平和のための京都の戦争展は8月2〜7日まで午前9時半〜午後4時半。入場無料。【岡崎英遠】

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