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沖縄戦「しまくとぅば」で 世代超えて継承 平良さん、研究テーマ生かし

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「卒業式は壕の入り口。泣きながら校歌を歌った」と語る宮城さん(左)と話を聞く孫の平良さん 拡大
「卒業式は壕の入り口。泣きながら校歌を歌った」と語る宮城さん(左)と話を聞く孫の平良さん

 太平洋戦争末期の沖縄戦に動員された「瑞泉(ずいせん)学徒隊」の生存者の1人、宮城幸子(さちこ)さんが6月に亡くなった。90歳だった。孫の琉球大学大学院生、平良美乃(よしの)さん(25)=沖縄県浦添市=は、祖母が生前語ってくれた沖縄戦の記憶を継承し、自身の研究テーマである「しまくとぅば」(島言葉)で後世に語り継いでいくことを心に決めている。「沖縄戦もしまくとぅばも伝え続けていかなくては忘れ去られてしまうから」

 沖縄戦の犠牲者を悼む「沖縄慰霊の日」を4日後に控えた6月19日、平良さんと一緒に訪れた宜野湾市の高校の駐車場で宮城さんは意識を失って倒れ、搬送先の病院で息を引き取った。叔母が勤務する高校の平和学習で全校生徒を前に平良さんが宮城さんにインタビューする予定だった。

 宮城さんは渡嘉敷島の出身で、那覇市の県立首里高等女学校に進学。1945年3月末に沖縄戦に動員され、南風原(はえばる)町にあった野戦病院「ナゲーラ壕」の入り口で卒業式を迎えた。4月に米軍が沖縄本島に上陸すると、手足のない負傷兵の傷口にわくウジ虫を取りのぞくなど働いた。

 「足を切断するために負傷した親友の手足を押さえたのよ。壕を移動する時に『一緒に行きたい』と言われたけれど、離ればなれになってそれっきり」「今も思うわよ。あの子が生きていたらどんな老後を過ごしていたのかなって」。亡くなる1週間前、73年前を思い出して涙を浮かべる祖母の話を平良さんは一生懸命メモした。

 瑞泉学徒隊は61人が戦場に送り込まれ、生き残ったのは宮城さんら28人だけだった。

 平良さんがそんな祖母の戦争体験に初めて触れたのは2014年のことだ。関西の大学で英語を学び、米国留学も経験して沖縄出身というルーツを強く意識するようになっていたころ、祖母がいた壕を巡りながら戦争体験を聞くイベントに参加して衝撃を受けた。

 暗い壕の前で聞いた、祖母が体験した生々しい地上戦の話。生き抜いてくれたことで今の自分がある。そう感じて沖縄の歴史や自らのルーツに目を向けるようになり、沖縄の歴史や文化の土台にある「しまくとぅば」を研究しようと故郷に戻った。

 「ばあちゃんは戦争で家族や友達を亡くした。その痛みを自分がいかに理解できていなかったか、ばあちゃんが亡くなって初めて分かった」。大好きだった祖母を失い、深い喪失感を感じている。だからこそ、沖縄戦も「しまくとぅば」も風化が懸念されるが、「島にある大切な歴史と言葉。きちんと後世に伝えなくてはなかったものにされてしまう」との思いを強くする。

 「美乃が沖縄戦に関心を持ってくれてうれしい。語り継いでいってくれるから」。そう言ってくれた祖母の笑顔。平良さんは叔母と一緒に祖母の体験を一冊の本にまとめようと考えている。決してなかったことにしないために。【佐野格】

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