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「原爆や戦争について分かっていたつもりだった。でも、本当は何も知らないのではないか」
3年前の夏、広島県福山市出身で順天堂大学2年の橋本瀬奈さん(19)はそんな思いに駆られ、広島で被爆死した曽祖父の消息をたどった。そこには家族を愛した一人の青年の姿があった。曽祖父の死から73年後の今、橋本さんは教師を目指し、原爆そして平和について次世代に伝えようとしている。
橋本さんは福山市の私立盈進(えいしん)高校2年だった2015年、人権や平和について学ぶ同校ヒューマンライツ部の部長になった。
この年は原爆投下から70年。部活動の一環で、平和記念公園(広島市中区)にある「国立広島原爆死没者追悼平和祈念館」を訪れた。曽祖父が原爆で命を落としたことは、家族からぼんやり聞いていた。同館には犠牲者の名前から遺影などを検索するシステムがある。「橋本」と入力してみたが、ヒットしない。身近な人が犠牲になったのに、その人がいなければ自分は生まれなかったのに、名前すら分からない自分にショックを受けた。
「ひいおじいさんの足跡をたどってはどうか」。顧問の教諭から勧められ、曽祖父について調べ始めた。
親族らに詳しく話を聞き、曽祖父の姿が少しずつ現れてきた。名前は小川菊雄。父方の祖母の父で、警察官だった。広島県警に問い合わせると、死亡状況の記録が残っていることが判明した。原爆が投下された1945年8月6日朝、爆心地から約900メートルの旧県庁で米軍機の監視業務に当たっていたという。
同県世羅町に住む親族が写真を保管していた。口ひげを生やした引き締まった表情の青年が写っていた。亡くなった時は32歳。2人の娘がおり、妻のおなかには3人目の娘が宿っていた。
橋本さんは2015年8月、被爆者らでつくる県原爆被害者団体協議会(県被団協)の総会に招かれてスピーチした。
会場の広島市文化交流会館は、偶然にも曽祖父が被爆死した旧県庁の跡地。「妻と子供を残し、さぞ無念だっただろう。私たちは今こそ被爆者の声に耳を傾けるべきだ」。気が付くと目から涙があふれ、頬を伝っていた。
その様子を県被団協の理事長、坪井直(すなお)さん(93)が見守っていた。
坪井さんは20歳の時に爆心から約1・2キロで被爆して大やけどを負い、奇跡的に生き残った。戦後は中学校教師となり、子供たちに被爆体験を伝えた。退職後は全国の被爆者運動を率い、核拡散防止条約(NPT)再検討会議に合わせて渡米するなど国内外で被爆体験を語ってきた。
橋本さんは翌年3月、坪井さんにインタビューをした。核廃絶と平和への強い思いを聞いた後、こう言われた。「若者よ、頼んだよ」。被爆者が70年以上つないできたバトンを託された気がした。
橋本さんは大学に進学し、坪井さんと同じく教師を目指している。「平和な世界のために先頭に立って発信していく」。いつか教壇に立ち、再びバトンを渡す日へ決意を固めている。【高山梓】