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情報格差が共生や多様性を阻むわけ スローコミュニケーションの試み/1

野澤和弘・植草学園大学教授/毎日新聞客員編集委員
 
 

 誰もがスマートフォンを持つようになり、瞬時に多くの情報に接し、SNS(ネット交流サービス)を通じて多くの人とつながり合うようになりました。しかし、価値観が多様化し、わかる人にしかわからない知識や情報が増えれば、むしろ共生や多様性を妨げると野澤和弘さんは指摘します。世の中にあふれる「わかりにくさ」の正体を探りながら、互いの存在や価値観を認め合う本物のコミュニケーションを目指す「スローコミュニケーション」について解説します。

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 今さら言うまでもないが、コミュニケーションは大事だ。新型コロナウイルスの蔓延(まんえん)でオンラインでの会議や授業が当たり前になったからそう感じるのか。LINEやツイッター、フェイスブックというSNSを誰もが使うようになり、文字や写真、映像で瞬時に多くの人とつながり合うことができる世の中になったせいかもしれない。

 一方、社会全体で空気のように共有していたものが薄れたように感じることがある。たとえば、人気テレビ番組や大ヒット歌謡曲など同時代の国民のほとんどが共通の話題にするようなものが以前に比べると少なくなった。家族みんなで茶の間のテレビを見るということもあまりない。

 誰もがスマートフォンを持つようになり、ネットからあふれ出る情報によって興味や話題が拡散するようになった。決して悪いことばかりではないが、情報の高度化の一方で、人と人の情動の交流が希釈されているようにも感じる。

 「共生社会」「多様性」といった言葉がはやりだが、さまざまな価値観がただ混在するというだけでは共生はできず、多様性も生まれない。そこには信頼と配慮に基づいたコミュニケーションがなければならない。知識や情報の格差がむしろ共生や多様性を妨げているようにも思えるのだ。

スポーツ記事の落とし穴

 「大谷が甘く入ったスライダーを右へ運んだ」

 アメリカの大リーグが開幕し、今年もこのようなニュースが海を越えて日本にも伝えられるのかと思うと心が躍るのは私だけではないだろう。

 ところが、野球に興味がない人にはこのニュース記事の意味がまったくわからない、ということを野球好きの人は知らない。

 「何か機械が関係していますか?」

 ある女子大学生にこの記事を読ませたところ、真顔で尋ねられた。「スライダー」がわからず、その語感から何か重いものを動かす装置のようなイメージを持ったらしい。

 大リーグ・エンゼルスの大谷翔平選手は今や野球に興味のない人でも知っているだろう。二刀流……というのもあえて説明すると、投手と打者の両方をやることで、高校野球では珍しくないが日本のプロ野球ではどちらかに専念するのが普通だ。大リーグでは有名なベーブ・ルース以来約100年ぶりに本格的な二刀流の選手として登場したのが大谷選手、しかもルースをしのぐ大活躍をしたことで、アメリカ国内でも話題が沸騰している。そうした前提を知らなければ、大谷選手の活躍がこれだけマスコミをにぎわしている理由もわからないだろう。

 そして、スライダー。直球に近い軌道を持ちながら打者の手元で滑るように曲がる変化球だ。ずっと以前は変化球といえばカーブくらいだったが、今はスプリット、カットボール、シュート、チェンジアップ、フォーク、シンカーなど実にたくさんの変化球が存在する。その中でも多くの投手が使うようになったのがスライダーという変化球だ。

 記事は、相手ピッチャーの投げたスライダーが打ちやすいコースに来たため、大谷選手(打者)が右翼席に飛び込むホームランを放った、ということを伝える内容なのである。

 スポーツの記事やニュースは難解な用語はほとんど出てこない、子どもでもわかる親しみやすいものだと思われがちだが、スポーツ記事特有の文章に慣れた人の間でしか通用しないものがたくさんある。それがスポーツ記事の落とし穴だ。

コミュニケーションの本質

 改めてこの文章を分析してみると、「主役」ともいえる重要な言葉がどこにも出てこないことに気づく。甘く入ったのは相手投手の投げたボール、大谷選手がバットで打ち返して右へ運んだのもボール。なのに、そのボールという言葉がどこにも出てこない。

 野球のことを知っている人にとってはあまりにも当たり前なので書く必要がないのだろう。いちいち「ボール」と書くと時間も労力もかかり、かえって読みにくくもなるため、暗黙の了解事項として省略しているのである。

 このことはコミュニケーションの本質をよく物語っている。情報を発信する側と受け取る側の双方に共通の認識がたくさんあるほど、省略も多くなる。それで十分に通用するからだ。その方がむしろスムーズなコミュニケーションが図られるからである。

 家族や友人など親しい間柄の会話を思い浮かべてみるとわかるだろう。主語や目的語の省略、「それ」「あれ」などの指示代名詞がいかに多いか。あえて言葉にしなくても、ため息ひとつ、目配せするだけで通じることもある。あうんの呼吸、以心伝心とはそういう高度なコミュニケーションを指す。

 閉ざされた環境の中でルールや慣習やさまざまな情報を共有していると、そこだけで通用する常識や文化が出来上がる。あえて言葉にしなくてもわかり合えるものが多くなる。そして、そういうコミュニケーションを重ねていると、ある種の安心や心地よさを感じるようになる。無意識の一体感が自然に生まれることは、共同体の求心力を生む重要な要素だ。

 一方、閉ざされた環境の外側にいる人にとっては、共同体内で通用する省略や以心伝心がよくわからない。意図的ではないにしろ、結果として部外者を排除することになり、多様性を阻害する要因となっている。

二重否定のわな

 「もう恋なんてしないなんて 言わないよ絶対」

 1992年に槙原敬之さんが発表したヒット曲のサビの歌詞だが、なんだかとても屈折した心情を表している。この歌は出だしから「君がいないと何もできないわけじゃないと」という回りくどい歌詞が登場する。

 できないわけじゃない。否定×否定だから肯定、つまり「できる」ということなのだが、「できないわけじゃない」と「できる」はニュアンスが違う。強がっているだけで、「できない」ということを言いたいのではないかとも思える。その後に続く歌詞は「ヤカンに火をかけたけど紅茶のありかがわからない」というので、やっぱり「できない」と言いたいのだな……ということがわかる。

 こういう二重否定は日本人の会話(と言い切ってしまっていいのかわからないが)で実によく使われる。

 理由はさまざまだ。本当に主張したいことはあるが、わざと否定したりおとしめたりしながら遠回しに言う。あからさまに表現すると反発されるので、遠回しに言う。恥ずかしいので、何度も否定しながら本当の気持ちを伝える。言いたいことをあからさまに言うのは下品と思われるので間接的な言い方をする……。

 緩叙法とは、直接的な主張ではなく、逆の意味のことを否定する修辞技法のひとつだ。「うまい」という代わりに「まずくはない」、「よくできた」という代わりに「悪くはなかった」という言い方を私たちは何気なしにする。

 控えめに言おうとしているのか、本当は強く主張したいのかは微妙だ。どんな性格の人が言っているのか、どのような文脈で使われるのかによっても違う。

 ネットの普及で以前に比べて情報のやり取りは格段に便利で早くな…

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植草学園大学教授/毎日新聞客員編集委員

のざわ・かずひろ 1983年早稲田大学法学部卒業、毎日新聞社入社。東京本社社会部で、いじめ、ひきこもり、児童虐待、障害者虐待などに取り組む。夕刊編集部長、論説委員などを歴任。現在は一般社団法人スローコミュニケーション代表として「わかりやすい文章 分かち合う文化」をめざし、障害者や外国人にやさしい日本語の研究と普及に努める。東京大学「障害者のリアルに迫るゼミ」顧問(非常勤講師)、上智大学非常勤講師、社会保障審議会障害者部会委員なども。著書に「弱さを愛せる社会へ~分断の時代を超える『令和の幸福論』」「あの夜、君が泣いたわけ」(中央法規)、「スローコミュニケーション」(スローコミュニケーション出版)、「障害者のリアル×東大生のリアル」「なんとなくは、生きられない。」「条例のある街」(ぶどう社)、「わかりやすさの本質」(NHK出版)など。