ひととき

vol.5 牧太郎
2018.11.5

「俺はバッターじゃない!」と言い聞かせ、週刊誌編集長は「朝焼けのコーヒー」を飲んだ

 事件記者の20歳代、毎日がバッターボックスに立った気分だった。

 ヒットを打つゾ! センター前でも……三遊間のゴロでも……取りあえず、一塁に出なければ! そんな気分だった。

 読者に〝新しい情報〟を届けられればヒットである。もちろん、社会面トップの特ダネならホームランだ。月に1度、1面のトップを張れば「社会部の首位打者!」と心得ていた。

 特大アーチを放ったこともある。ある疑獄事件。「渦中の人物」が報道陣の追及を避け、東京・赤坂の病院に入院した。気づいた報道陣が病室を取り囲んだが、ドアはもちろん開かない。病院側は「他の患者の迷惑だから出て行ってくれ!」。報道陣は毎朝、この病室に詰めかけ、結局、ガードマンに追い出された。

 そこで……病院から出たフリをして、トイレに隠れる。深夜、誰もいない病院の廊下を恐る恐る……病室のドアを静かにノックした。 

 「誰ですか?」

 意外にも、渦中の人物は穏やかだった。ここ数日、医師、看護師以外に、誰とも話していなかったのだろう。〝話し相手〟が欲しかった。

 その日から、毎夜訪問。仲良くなった。

 1週間後、その人物は「大臣」の名前を含め「政界工作」を告白してくれた。

 1面トップの大スクープ。ホームランだ! 「密室のインタビュー」と評判になった。

 後で気づいたことだが、ライバルの産経新聞のM記者は白昼、屋上から忍者のように病室の窓に入り込み、この人物と接触していたらしい。事件記者なら、誰でもホームランを狙っていた。

 「見送り三振」も学んだ。

 昭和の歌姫・美空ひばりさんを取材した時のことだ。「ひばり御殿」を訪ねると、母上の加藤喜美枝さんが大きな布団に座っていた。「ひばりさんは?」「これは書いてはダメよ。今日は、金田(正一・400勝投手)さんとデートなのよ」

 これは、ちょっとしたニュース!と思った。でも「書きませんよ」と笑うと、彼女は「加藤家の秘密」を幾つも話してくれた。「私が死んだら書いていいけど、私が座っている、この床下に大きな甕を埋めてあるのよ。現ナマは全て、この甕(かめ)の中に入れているのよ。税金対策だけど」

 面白い話ばかりだった。すぐにも書きたい!……でも「見送り三振」で良いじゃないか。書かないことで「信頼される技」を学んだ。

こんなに愉快な仕事は他にない

 政治部記者になって「守備」を学んだ。野球にはピッチャーがいて、捕手、内野、外野がいて、全員で守る。

 政治部全員がそれぞれキャッチした情報を集めて「水面下の出来事」を分析する。チームワークだ。首位打者だけでは勝てない。それを学んだ。

 サンデー毎日の編集長になったのは1989年夏だった。「俺はバッターじゃないんだぞ!」と己に言い聞かせた。

 記者の一人一人がホームランを打てるような雰囲気を作る。編集長はそんな「脇役」だった。

 毎週金曜日が締め切り。記者連中が原稿を書いている間、鍋料理を用意する。仕事が終わった記者と酒を飲む。原稿はデスクに任せ、編集長は「ホスト」である。

 「右大」「左大」と言われる〝特集もの〟が出来上がった頃(おおむね、午前4時ごろ)「俺、帰るわ」と編集部を後にする。編集長の悪口が言えるようにするのだ。

 実は、これからが数少ない「俺のひととき」。朝焼けを見ながら、自動販売機のコーヒーを飲む。

 今週も多分、ホームランだ!

 週刊誌不況と言われた「この頃」、なぜか、サンデー毎日と週刊プレイボーイだけが部数を増やした。

 でも……20数年間「睡眠時間4時間」で頑張った当方、編集長時代に脳卒中で倒れてしまった。

 まあ、花と散るのも、俺の記者人生!(笑い)

 一介の記者に戻ったが……こんなに愉快な仕事は他にない。


牧 太郎(まき たろう)

客員編集委員

1944年、東京都生まれ。早稲田大学政治経済学部卒、67年毎日新聞社入社。社会部、遊軍記者を経て政治部へ。首相官邸キャップを務めた後、89年にサンデー毎日編集長。97年には日本記者クラブ賞を受賞。2002年に専門編集委員に就任。14年から現職。これまで多くのテレビ・ラジオ出演や、「新聞記者で死にたい」「ここだけの話」など著作多数。現在、サンデー毎日で「青い空 白い雲」を連載中。


〈次回は2018年12月3日(月)客員編集委員 冠木雅夫掲載予定〉