連載

ヒバクシャ

核被害の悲惨さを訴え続ける被爆者の声に耳を傾け、平和と核廃絶を求める思いを伝えます。

連載一覧

ヒバクシャ

’07秋/1 郭貴勲さん 「恨晴らす」魂の叫び

  • ブックマーク
  • 保存
  • メール
  • 印刷

<ノーモア核被害 documentary report 46>

 秋がめぐってきた。猛暑に見舞われた被爆から62年目の今夏は、高齢となったヒバクシャの方々には一際(ひときわ)厳しいものだった。最近になって体調を崩す人が相次いだが、国の原爆症認定基準の見直しが佳境に入ったほか、体験継承の好機となる修学旅行シーズンも迎えている。不調をおして平和の尊さを説く姿があり、その熱が向き合う人々の心を動かしていた。本企画はこうした中で、2年目に入る。

放置、韓国から告発

郭貴勲さん。今も残る、被爆で負ったケロイド=東京都内のホテルで2007年10月26日、石井諭撮影 拡大
郭貴勲さん。今も残る、被爆で負ったケロイド=東京都内のホテルで2007年10月26日、石井諭撮影

 「虐待された民族の『恨(ハン)』を晴らしたい。月何万円かの小銭をもらいたいがための運動ではないのです」。韓国原爆被害者協会前会長の郭貴勲(カクキフン)さん(83)=韓国・京畿道城南市=の激しい言葉にたじろいだ。植民地支配の結果として原爆に遭い、長い年月、日本からも母国からも放置された「恨」を言っているのだった。それはまさしく、協会発足から40年、韓国の被爆者を支えてきた人の心からの叫びに違いない。

 今月19日、宿泊先の東京・YMCAアジア青少年センターの一室。郭さんは、初対面の私をにこやかに迎えてくれた。与党の被爆者対策に関するプロジェクトチームの聴聞に招かれて2日間滞在し、帰国する朝だった。

 日本統治時代に覚えさせられた日本語で、淡々と語り始めた。1944年9月、二十歳の郭さんは、師範学校の卒業間際に徴兵され、広島の部隊へ。原爆投下は、爆心地から約2キロの工兵隊兵舎を出発した直後だった。

 「巨大な火の玉が空を覆い、必死で逃げた。気が付くと背中が燃えていました」。1週間、人事不省に陥った。シャツの袖をめくり、左の前腕部に残るケロイドを見せた。

 帰国後は教員となり、自身は何とか食べていけた。「でも、多くの被爆者はみじめでしたよ。特に朝鮮戦争後はね。家も失い、物ごいの揚げ句、道端で死んだり、家族に見放されたり……」。郭さんによると、朝鮮半島に戻った被爆者は約2万3000人だが、現在の協会会員は2663人だ。

 59年8月、郭さんは被爆体験を韓国の新聞に投書し、連載記事になった。「政府も誰も被爆者に注目しない。『原爆が落ちて独立を早められたのだから、辛抱しろ』というのが、当時でした」

 国交正常化後の67年2月に来日がかない、広島を訪問。後に市長となる新聞記者の平岡敬氏と出会うなどし、同年7月、協会の前身「原爆被害者援護協会」を設立した。

 郭さんは裁判で、在外被爆者への被爆者援護法の適用に道筋を付けた。98年5月、腰痛治療で来日して手帳交付を受け、健康管理手当(月額約3万4000円)も支給された。だが、2カ月後に帰国すると手当は打ち切られ、提訴した。02年12月に勝訴が確定。大阪高裁の裁判長は「『被爆者はどこにいても被爆者』という事実を直視せざるを得ない」と述べた。

 今回、郭さんは舛添要一厚生労働相と面会した。「被爆者はどこにいても被爆者!」と記した名刺を渡し、海外での被爆者手帳の交付を要求した。高齢や病気で来日できず、韓国では230人が手帳を持っていない。厚労相には、「要望を確約してくれなければ帰れない」と迫ったという。

 「日本の被爆者と全く同じ待遇にしてくれなければ」。言葉に魂を込めた。<文・立石信夫/写真・石井諭>

あわせて読みたい

この記事の特集・連載

アクセスランキング

現在
昨日
SNS

スポニチのアクセスランキング

現在
昨日
1カ月