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あの日、真珠湾で

日本が戦争を拡大させる大きな節目となった1941年12月8日の真珠湾攻撃から今年で80年。関連の連載などを紹介します。

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あの日、真珠湾で

収容所での二つの質問許せず 愛した米国に戻らなかった2世の父

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野崎京子さんと父・谷川力さんらが強制収容所に入れられた際に持ち込んだ、衣類などを入れたトランク。側面には収容者に割り振られた番号と名前が書かれている=京都市左京区で2021年11月19日、山崎一輝撮影
野崎京子さんと父・谷川力さんらが強制収容所に入れられた際に持ち込んだ、衣類などを入れたトランク。側面には収容者に割り振られた番号と名前が書かれている=京都市左京区で2021年11月19日、山崎一輝撮影

 太平洋戦争の発端となった日本軍による米ハワイ・真珠湾攻撃から、12月8日で80年。関係者を訪ねた連載「あの日、真珠湾で」の最終回となる第4回は、日系3世として米国西海岸で生まれ、幼少期に強制収容を体験した女性研究者の視点から戦争を描く。【椋田佳代/社会部】

 21504。京都市左京区の自宅で11月半ば、京都産業大名誉教授の野崎京子さん(82)は黒いトランクに記された5桁の数字を指さした。「これが私たち家族に割り振られた番号です」。80年前の日米開戦をきっかけに、米国西海岸に住んでいた12万人以上の日系人が「敵性外国人」として強制収容された。幼かった野崎さんもその一人だ。手に持てるだけの荷物しか持ち込みを許されず、父が急いで購入したトランクは、今も書斎に置いてある。

 カリフォルニアでイチゴ農家を営む日系2世の両親の元に生まれた。2歳だった開戦時の記憶はない。終戦後、両親や兄と日本に渡り、高校3年で再び単身渡米した。「どこのキャンプ(収容所)にいたの?」。当時、日系人の間で頻繁に交わされた質問の意味すら最初は分からなかった。その後、生活の拠点を日本に移し、1970年代から日系米国人の文学を研究した。作家らへの聞き取りを重ねるうち、自らのルーツを知りたいとの気持ちが強くなり、強制収容された家族の歴史をたどり始めた。

 日本軍が真珠湾を攻撃した41年12月8日。現地は7日の日曜日で、父の谷川力(つとむ)さん(2011年に101歳で死去)は映画を見に行っていた。住んでいた田舎は情報が乏しく、「自分は米国人」という意識でいた32歳の父に危機感はなかった。

 だが42年2月、日系人の強制収容を進める根拠となった米大統領令が出て事態は一変する。一家は遠く離れたユタ州の収容所に入れられた。…

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