日本の宇宙時代の幕開け
ちょうど50年前に起きたことです。1970年2月11日、鹿児島・内之浦のロケット発射場から、4段式の固体燃料ロケット「ラムダ4S5号機」が発射されました(写真1)。ロケットの先端のフェアリングの中には、重さ24キロの小さな衛星が載っていました。ロケットは途中の手順を順序良く実行し、やがて衛星が切り離されて一人旅に移りました。日本最初の衛星が誕生した瞬間でした(写真2)。
私は当時27歳。大学院の博士課程の最後の学年。内之浦の「衛星テレメーターセンター」の一室にいました。ロケットを追跡中のレーダーが送ってくるロケットの上下角を読み取りながら、グラフ用紙に点で描き入れていたのです。ロケットの最後の段(4段目)に点火すると、その上下角がスッと小さくなります。それこそ、衛星が軌道に乗ることに成功した最初の証しであり、その幸せな瞬間を心待ちにしていたのです。「やったあ、火がついたぞ!」。私は急いでコントロールセンターに報告しました。
過去に人工衛星を載せてラムダ4Sロケットを打ち上げたことが4回ありました。私は4回とも同じ部屋におり、そして4回ともロケットは途中でうまく行かず、4段目点火の劇的なデータを確認するに至りませんでした。66年から始まった日本最初の人工衛星への挑戦は、予想をはるかに超えて困難な歩みとなったのでした。
太平洋戦争に敗れた日本が、宇宙にチャレンジする思いを込めて最初に放ったロケットは「ペンシル」と呼ばれました(写真3)。55年4月に東京・国分寺で水平に発射されたものです。私は当時中学生でした。生まれ育った故郷の広島・呉の自宅で夕飯時のだんらん、「ペンシル」の発射を知りました。「日本もロケットで宇宙をめざすんだなあ」という兄の言葉に、何かしら希望の薫りがしたことを、懐かしく覚えています。テニス漬けの毎日を送っていた田舎の少年は、その後見えない力に引き寄せられながら、人類の宇宙時代の波にのみ込まれていきました。
そして70年2月11日、日本もついに地球を回る軌道に人工の衛星を放り込んだ。これからいよいよ日本の宇宙時代が本格化する――今はもう存在していないあの部屋のあの瞬間の、ワクワクするような胸の高鳴りを私は今でも思い出すことができます。
直後の記者会見で打ち上げ場所の大隅半島にちなみ、「おおすみ」と命名された衛星誕生に至る日本の宇宙開発史を、数回に分けて紹介することにしましょう。(つづく)
日本宇宙少年団(YAC)
年齢・性別問わず、宇宙に興味があればだれでも団員になれます。 http://www.yac−j.or.jp
「的川博士の銀河教室」は、宇宙開発の歴史や宇宙に関する最新ニュースについて、的川泰宣さんが解説するコーナー。毎日小学生新聞で2008年10月から連載開始。カットのイラストは漫画家の松本零士さん。
的川泰宣さん
長らく日本の宇宙開発の最前線で活躍してきた「宇宙博士」。現在は宇宙航空研究開発機構(JAXA)の名誉教授。1942年生まれ。