コロナ乗り越え、天理大ラグビー部躍進 雑草集団磨く小松監督のフランス流指導
- ポスト
- みんなのポストを見る
- シェア
- ブックマーク
- 保存
- メール
- リンク
- 印刷
東京・国立競技場で11日に行われたラグビーの第57回全国大学選手権決勝。天理大が早稲田大を55―28で降し、初優勝した。8月に部員62人が新型コロナウイルスに集団感染し、約1カ月活動を休止したものの、関西勢としては1984年度に3連覇した同志社大以来36大会ぶり史上2校目の大学日本一。そこには、難局でも崩れない小松節夫監督(57)の独自の育成理論と、選手たちのゆるぎない自信があった。【長宗拓弥】
3部転落からのスタート
「我々だけでは到底乗り越えられなかった。大学や天理市民、みなさんのおかげで活動を再開できた。そんな人たちに恩返しができ、喜んでもらえることが本当にうれしいです」。試合終了直後の優勝監督インタビュー。小松監督は激動の1カ月に思いを巡らせていた。8月に部を襲った新型コロナ。一時は大会参加も危ぶまれた中でつかんだ日本一だった。
最初の部員の感染確認は8月12日。PCR検査で次々と陽性判定が出て活動を自粛した。約170人の全部員が暮らす寮に住み込み「寮長」を担う小松監督は収束に奔走した。陰性だった部員の隔離先や、寮の部屋割りの見直し、食事の取り方。専門家の意見を聞き、感染対策を施した。
集団感染の影響はラグビー部以外の学生にも及んだ。アルバイト先からの出勤停止や教育実習先の学校に受け入れを拒否される事態に発展。ネット上には感染者を出したチームを批判する投稿があふれた。それでも、9月10日に活動再開。チーム作りは大幅に遅れるも試練を乗り越え、関西大学Aリーグで5連覇を達成した。
天理大ラグビー部の創部は1925(大正14)年。関西では全国優勝4回の同志社大と覇権を争う時期もあったが、91年にBリーグ(2部)降格。翌年にはCリーグ(3部)に転落した。再建を託されたのは小松監督。93年にコーチとなり、95年に監督へ昇格した。
小松監督は天理高、同志社大、日新製鋼で主にCTBとしてプレーした。天理高時代には高校日本代…
この記事は有料記事です。
残り1535文字(全文2357文字)