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広島原爆アーカイブ

1945年8月6日午前8時15分、人類史上初の核攻撃で破壊し尽くされた広島。その3日後、毎日新聞記者が撮った原子野の光景は、「核廃絶の原点」として後世に残さなければならない記録となった。「広島原爆アーカイブ」は広島原爆を撮った所蔵写真を順次公開していきます。

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広島原爆アーカイブ

原爆投下から半年後と1年後 市民を捉えた25枚

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被爆から1年の広島・中島地区の慈仙寺の鼻に建築中の戦災供養礼拝堂。「復興事業に取り掛かる前に犠牲者の供養を」という市民からの強い申し入れを受け、広島市は爆心地への供養塔建設と市内の遺骨収集を計画。左側の広島市戦災死没者供養塔は、1946年5月26日に完成。祈りを捧げる女性と子どもたちが見える。礼拝堂は、8月5日に完成し、6日には戦災死没者1周年追悼会が執行され、数千人の市民が参列した。画面奥左から広島県商工経済会、原爆ドーム、「廣島市戦災死没者供養塔建・・・」と書かれた柱が立っている=広島市中島本町(現広島市中区中島町)で1946年7月24日ごろ
被爆から1年の広島・中島地区の慈仙寺の鼻に建築中の戦災供養礼拝堂。「復興事業に取り掛かる前に犠牲者の供養を」という市民からの強い申し入れを受け、広島市は爆心地への供養塔建設と市内の遺骨収集を計画。左側の広島市戦災死没者供養塔は、1946年5月26日に完成。祈りを捧げる女性と子どもたちが見える。礼拝堂は、8月5日に完成し、6日には戦災死没者1周年追悼会が執行され、数千人の市民が参列した。画面奥左から広島県商工経済会、原爆ドーム、「廣島市戦災死没者供養塔建・・・」と書かれた柱が立っている=広島市中島本町(現広島市中区中島町)で1946年7月24日ごろ

 米軍による原爆投下から半年後と1年後の広島を撮影した毎日新聞の写真計25枚は、にぎわう露店や建設中の簡易住宅など復興の息吹を捉えていた。爆心地近くで犠牲者を悼む人々も写しており、混乱のさなかにも慰霊の場を求めた市民の思いがにじみ出る。一部を紹介する。

被爆から1年 祈り 空腹 命つなぐ

 戦後は平和記念公園に整備された広島市中島本町(現中区)で1946年7月に撮影された写真には、梵字(ぼんじ)の入る卒塔婆の前で手を合わせる女性らの姿があった。本格的な復興事業に先駆けて建てられた「広島市戦災死没者供養塔」で、傍らには建設中の礼拝堂が写っている。

原爆投下から半年後と1年後に撮影されたポイント (数字は撮影ポイント 残りの写真は写真特集で)
原爆投下から半年後と1年後に撮影されたポイント (数字は撮影ポイント 残りの写真は写真特集で)

 広島新史歴史編(84年)によると、写真の供養塔(高さ約6メートル)は46年5月、被爆直後は臨時火葬場だった慈仙寺(後に広島市内に移転)の境内に市が建立した。被爆1年後の8月6日、完成した礼拝堂で、市や各宗連盟県支部などが共催した追悼の行事が営まれた。この時、読経した慈仙寺前住職の梶山仙順さん(95)=同市中区=は「市役所の担当課長が一周忌に間に合わせるため関係先を駆けずり回った」と証言する。

 梶山さんは所属していた陸軍部隊が四国に駐留したため被爆を免れたが、帰らぬ人となった父を継いで住職に就いたばかりだった。配給による統制経済の破綻で食糧難にあえぎ、4人の弟妹が自分の双肩にのしかかっていた。供養塔の近くにバラックを建てたが、「いかにして食べるか」に悩む日々だった。

 そんな戦後にあって数千人を集めた追悼行事の精神は、47年8月6日に広島市が主催した「第1回平和祭」に引き継がれる。13歳のとき平和祭を見た浜井徳三さん(83)=広島県廿日市(はつかいち)市=は慈仙寺の近くで理髪店を営んでいた両親を原爆で失い、親戚宅に身を寄せていた。生まれ故郷は木々が茂る公園に整備されたが「父を殺され、母を消された墓場だ」と語気を強める。

平和記念公園内にある原爆供養塔は1950年に現在の形になった。今も犠牲者が眠る=広島市中区で2017年12月15日、山田尚弘撮影
平和記念公園内にある原爆供養塔は1950年に現在の形になった。今も犠牲者が眠る=広島市中区で2017年12月15日、山田尚弘撮影

 写真の供養塔は55年、約50メートル北寄りに土を盛った現在の形となり、内部には7万柱に及ぶ身元不明や引き取り手のない遺骨を納める。今も原爆の日には、平和記念式典とともに欠かさず慰霊祭が執り行われている。

被爆から1年の広島・京橋付近の住宅の家庭菜園。深刻な食糧難の中、一坪菜園をする家庭が多く見られた。画面中央に「Hiroshima Bazaar Bargain Sale」という看板(京橋通りではないかと思われる)=広島市京橋町(現広島市南区)で1946年7月24日ごろ
被爆から1年の広島・京橋付近の住宅の家庭菜園。深刻な食糧難の中、一坪菜園をする家庭が多く見られた。画面中央に「Hiroshima Bazaar Bargain Sale」という看板(京橋通りではないかと思われる)=広島市京橋町(現広島市南区)で1946年7月24日ごろ
被爆から1年の広島。福屋屋上では花柳舞踊研究生による広島復興小唄の舞踊練習が行われていた。背後は、爆心地相生橋方面。バラックが建ちはじめている。隣の建物は、商工組合中央金庫広島支所。画面奥左から住友銀行広島支店、芸備銀行本店、千代田生命広島支社、広島県産業奨励館(現在の原爆ドーム)、日本赤十字社広島支部、広島県商工経済会。路面を走る電車の姿も見える=広島市胡町(現広島市中区)で1946年7月24日ごろ
被爆から1年の広島。福屋屋上では花柳舞踊研究生による広島復興小唄の舞踊練習が行われていた。背後は、爆心地相生橋方面。バラックが建ちはじめている。隣の建物は、商工組合中央金庫広島支所。画面奥左から住友銀行広島支店、芸備銀行本店、千代田生命広島支社、広島県産業奨励館(現在の原爆ドーム)、日本赤十字社広島支部、広島県商工経済会。路面を走る電車の姿も見える=広島市胡町(現広島市中区)で1946年7月24日ごろ

被爆半年 復興の息吹

被爆から半年。広島城本丸西側輜重兵補充隊(輜重兵第5連隊)跡に建設が進む簡易住宅(住宅営団の越冬住宅)。罹災者のための公的な住宅建設が計画されたが、資材不足で実現は困難を極めた=広島市基町(現広島市中区)で1946年2月8日ごろ
被爆から半年。広島城本丸西側輜重兵補充隊(輜重兵第5連隊)跡に建設が進む簡易住宅(住宅営団の越冬住宅)。罹災者のための公的な住宅建設が計画されたが、資材不足で実現は困難を極めた=広島市基町(現広島市中区)で1946年2月8日ごろ

 被爆半年後の1946年2月に撮影した写真は、建設中の住宅群も写していた。爆心地に近い広島市基町(現中区)の旧軍用地に建てられた公営住宅だが、戦後経済の混乱は生活の再建に踏み出していた街にも影響していた。

戦後に簡易住宅が建ち並んだ基町は、その後建設されたアパートの取り壊しが始まった=広島市中区で2017年12月5日、山田尚弘撮影
戦後に簡易住宅が建ち並んだ基町は、その後建設されたアパートの取り壊しが始まった=広島市中区で2017年12月5日、山田尚弘撮影

 46年度の市勢要覧などによると、被爆時に約35万人だった広島市の人口は一時14万人を割り込んだが、8カ月後の46年4月に17万1000人まで回復した。原爆で半壊・半焼以上の家屋は9割に達し、住宅建設は重要課題だった。

 しかし、物不足が生んだ猛烈なインフレが立ちはだかる。木材価格の高騰で、住宅営団が売り出した組み立て式の住宅セットは品薄に。46年9月までに完成した市営住宅も200戸に過ぎなかった。生活再建の軸となる住宅がほぼ整うのは、広島平和記念都市建設法の成立(49年)に朝鮮戦争の特需が続いた50年ごろまで待たねばならなかった。

被爆半年の広島駅南側、広島駅電停近くの露店。たくさんの人が集まっている=広島市松原町から猿猴橋町にかけて(現広島市南区)撮影1946年2月8日ごろ
被爆半年の広島駅南側、広島駅電停近くの露店。たくさんの人が集まっている=広島市松原町から猿猴橋町にかけて(現広島市南区)撮影1946年2月8日ごろ

 一方、写真が撮影された46年2月までに市民が独力で建てたバラックは約5000戸に及び、飲食店が相次いで建ち並んだ。価格統制された配給が遅れ、広島駅前では自由価格で物を売買するヤミ市がにぎわった。

被爆から半年の広島駅前広場に面した松原町下の段に広がる闇市。1946年1月10日にパターソン米陸軍長官が広島を視察した際の警備上の理由から、駅前から南側に移転した。画面右上の広島駅電停にもたくさんの人々が並んでいる。電車は650形電車と思われる。広島駅舎左手の建物には、「JAPAN TRAVEL BUREAU」の看板=広島市猿猴橋町(現広島市南区)の住友銀行東松原支店から北の広島駅方向に向かって撮影1946年2月8日ごろ
被爆から半年の広島駅前広場に面した松原町下の段に広がる闇市。1946年1月10日にパターソン米陸軍長官が広島を視察した際の警備上の理由から、駅前から南側に移転した。画面右上の広島駅電停にもたくさんの人々が並んでいる。電車は650形電車と思われる。広島駅舎左手の建物には、「JAPAN TRAVEL BUREAU」の看板=広島市猿猴橋町(現広島市南区)の住友銀行東松原支店から北の広島駅方向に向かって撮影1946年2月8日ごろ

 写真は、広島平和記念資料館(原爆資料館)と高野和彦・広島市郷土資料館長、日本路面電車同好会中国支部代表の加藤一孝氏に検証を依頼しました。

 この特集の取材は平川哲也(大阪社会部)、山田尚弘(広島支局)が担当しました。

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